08. いつもの日常
私がチェリーさんの血を求めたのは、残念ながらあの夜の一度きりではすみませんでした。
次の満月までの一ヶ月間。
数日に一度は抗いがたい吸血衝動に襲われ、その度にチェリーさんは嫌な顔ひとつせず、私にその首筋を差し出してくれたのです。
私は胸のうちを罪悪感で染めながらも、妻の温かな愛に、ただ甘え続けることしかできませんでした。
――けれど、それも今夜で終わりのようです。
「あっ、キウイさん。尖っていた八重歯が治っていますよ」
「おや……本当ですか」
ベッドの上で告げられたチェリーさんの言葉を受けて、舌先で確かめると、何度も白い肌に突き立てた八重歯は、元の穏やかな歯並びに戻っていました。
窓の外を見やれば、満点の星空の中で、美しい満月が静かに夜を照らしています。
――終わった。
その事実を理解した瞬間、私の身体と心を締め付けていた呪縛が解けるように、全身からふっと力が抜けました。
溢れ出る安堵のまま長い息を吐き出して、ぎゅうっとチェリーさんの華奢な身体を抱きしめました。
「何度も辛い思いをさせて……すみませんでした」
「辛い、ですか。キウイさんに血を吸われることを辛いと思ったことはありません」
チェリーさんも、私の背中にそっと腕を回してくれました。
「キウイさんが、私の知らないところで独りで苦しんでいる……それが何よりも辛かったです。私に隠し事をするなんて、ひどいです」
「あぅ……そ、それは」
「次からはちゃんと、私を頼ってくださいね? すぐに、ですよ」
腕の中で私を見上げてくるチェリーさん。私はそのまっすぐな視線に耐えかねて、思わず目を逸らしてしまいました。
「……善処します」
「もう。これは長い期間をかけて、教えていかないといけませんね」
呆れたように微笑んだチェリーさんが、ぽすっと、私の胸に顔を埋めます。
そこには、白い首筋が無防備に晒されていました。
私が何度も八重歯を突き立てた、滑らかな肌。
その度に治癒魔法で治してあるので、傷跡はどこにもありません。
一見すると、何も変わらない、いつもの日常が戻ってきただけです。
ですが私の胸のうちには、以前よりも増した、妻への愛おしさが広がっていました。
「チェリーさん……本当に、ありがとうございます」
感謝を込めて、さらりとした髪を撫でました。
チェリーさんが顔を上げると、月明かりに照らされた薄紅色の瑞々しい唇が、目の前に現れます。
――万が一の感染を避けるために、この一ヶ月間ずっと控えていた、愛する妻との口づけ。
その封印が解けたのだと意識した瞬間、寝室を包む空気が、ゆっくりと色を変えていきました。
私の視線の熱に気づいたのか、チェリーさんもそっと息をのんで、頬を桃色に染めます。
私は愛おしさを抑えきれず、その顎をそっと掬い上げました。
チェリーさんも期待するように、静かに瞳を閉じます。
額が触れ合うほど距離を縮めると、吐息が優しく肌をくすぐりました。
久しぶりに重ね合わせた唇は、驚くほど柔らかくて、温かくて。
そっと唇を押し開くと、ただひたすらに甘い、愛しい妻の味が口の中いっぱいに広がっていきました。
――もう、この甘さに血の味が混じることはありません。
けれど私は、白い肌を突き破った歯の感触を、口の中に広がった鉄が香る甘い味を、生涯忘れることはないでしょう。
それは、チェリーさんが惜しみなく私に注いでくれた、一途な愛そのものなのですから。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
長編百合小説『人魚と姫』に出てくるメイド百合カップルのお話でした。
吸血ものを突然書きたくなって書いたやつです。
飲みたいと飲みたくないで葛藤するキウイはかぁいいですねぇ。
罪悪感を感じながら血を飲むキウイもかぁいいですねぇ。
もっとダークなやつを求めてた方には物足りなかったかもですが……私としては甘々に書けてとても満足しました!
本編では他にも色んな百合カップルが出てくるので、未読の方はぜひ!
『人魚と姫』
https://ncode.syosetu.com/n3773kv/




