その七
七
ドームの入りは八割ぐらいか、ほんのわずかの空間が空いているぐらいである。
「しかし何ていうかな、昨日とはまったく待遇が違うね。人のカバンの中まで、手を突っ込んであさるなんて!」
怒っているのは競羅だ。その言葉に数弥は、
「まあ、バックネット席は網が張ってあって、物を投げ込むことができませんからね。それに球場でテロなんて起こされたら大変すから」
「それはわかるけどね、いい気分がしないね」
「まあまあ姉貴、そんなことで文句を言ってても始まらねえよ」
絵里がたしなめるように声を出した。
「あんたは納得するのだね」
「納得も何も、そういうものだからよ。おとなしく従えばいいんよ。それが、この球場のルールなのだから」
絵里は、突っ張ってはいるが、長いものにはまかれろというタイプである。
「そうだね。終わったことだからいいか、さて、席はどこなのだい?」
「あそこす」
と言って数弥が示した場所は、観客席下段でッバックスクリーンのすぐ真横であった。
「まあまあの場所だね」
「ええ、センターの前すから。目標を色々と観察できると思いまして、でも、出入口からは一番遠い場所になりますね」
「上出来だよ。では、行くか」
と競羅が言い、四人は指定された観客席に向かった。
四人並びというわけでなく、縦横二列ずつの正方形である。協議の結果、絵里と数弥が下段、天美と競羅が上段ということになった。
競羅が天美に向かって小声で話しかけた。
「これは思ったより大変だよ。ひとえに、ホームランボールを取るといっても、こんな広いところなのだから。それに、この人数、どうするつもりなのだい?」
「どうするといっても、実行しないと、わったし、あのあたりに落ちてくると思うの」
と言って、突きつけるように指をさしたのは応援団席だ。そこには、【王者奉賛会】と背中に文字が書かれた金色のはっぴを着た若者たちが集まっていた。
また、【優勝奪回は王者の使命!】という横断幕を、これみよがしに大きく横に掲げ、大太鼓の横では、【絶対王者】と茶色地で金糸で染められた大きな旗を振っていた。
団員の一人が、指をさした天美に気がついたのか、にらみつけてきた。眉間に傷がある、いかにもケンカが好きそうな若者だ。他の団員たちも気がつき、何かが起きそうな雰囲気であったが。分別のありそうな団員が彼らに声をかけて、事なきを得た。
慌てて競羅が声をかけた。
「あんた、前から言っているけど。むやみやたらに人を指さしてはいけないよ」
「どうして?」
「どうしてっていう問題ではないだろ。雰囲気を見ればわかるだろ」
「だからこそ、ああいう威張った態度見ると、本能的に思わず指したくなるのよね」
この強気さが天美の性格である。競羅も気が強い人間だが、さすがに、この向こう見ずな天美の態度には困っていた。
「とにかくね。こっちは球場に野球を見に来てるのだよ。ケンカをしに来たわけじゃないからね。そういう挑発的なこと、やめてもらわないと」
「何か、姉貴らしくねえ言葉だなあ」
絵里が思わず声を上げた。
「当然だろ。ここに来てる人たちは野球を楽しみに来ているのだよ。その雰囲気をぶち壊すようなことはできないよ」
「そうかねえ、みんな、騒ぐことを楽しみに来てると思うけどな」
「騒ぐといってもね、度を超して、つまみ出されたら意味がないだろ。あんた、球場のルールに従うべきだと、さっき言っていたことを忘れたのかい」
「そうだったな」
絵里はそう答えた。そのあと、競羅は天美の顔を見つめて言った。
「その顔つき、あんたの方は、まだ不満そうだね」
「それはそうでしょ。あんな、大きな旗振られてたら危険でしょ。みんな遠慮してるし、わったしセラスタにいたときから、ああいう横暴な人たち見ると腹立つの」
「ですけど、天ちゃん、彼らは年間指定席を買って、あの場にいるんすよ」
数弥が声をかけてきた。
「そんなのあるの?」
「ええ、野球は六十試合近く同じ球場で行われますから、年間指定席というのが用意されているんす。彼らは、その指定席内で行動をしているんす」
「そうだと言っても・・」
その天美の声をさえぎるように競羅は声を出した。
「あんたの負けだよ。彼らはね数弥の言う通り、きちんと入場券を確保して陣取っているのだよ。そこで何をしようが彼らの勝手だろ。実際、その行動が許されないのだったら、とっくの昔に球場から追放されているよ。昔に比べたら、本当にましになったというか」
「ええ、外野が自由席だったとき、応援団と一般観客と席の取り合いで、不幸にも人が死んだこともありましたからね。実際、大昔は応援団をヤクザが仕切っていましたし」
「その通りだよ、年配の知り合いは懐かしそうに、こんなことを言っていたからね。プロ野球が始まった頃はひどい有様で、席の取り合い、酔っ払ったファン同士のケンカはしょっちゅう、球場としても、警察を入れるわけにはいかないから、自分たちが球場に頼まれて、それらの監視や仲裁をしていたと」
競羅の言う知り合いというのは、お察しの通りである。
「昔はそうかもしれませんね」
「それにね、今回、こっちがかかわった野球賭博だって、野球が始まった当時は、もう当たり前のように行われていたのだよ」
「姐さん、その話は、ちょっと」
数弥がそう声を出し、競羅も、
「そうだね。この話はさすがにまずいね。話題を変えるよ、さっき、数弥が応援団のことを話していたけど、これも、昔はこっちがケツ持ちをしていたみたいだね。若い頃、席を取るために、朝一番に並んで切符を買わされた、と言っていたよ」
競羅は話題を変えたつもりなのだが、一般から考えると変わっていなかった。数弥は困ったような顔をしながらも、次の言葉を、
「でも今は応援団には証明書がいりますから、ヤクザは無理なんすよ」
「ヤクザは無理でも、愚連隊は大勢いるぜ。彼らもそうよ」
声を出したのは絵里である。そして、そのまま、言葉を続けた。
「どこの組にも属してなかったら、何とでも肩書きが作れるからね。所長が言っていたよ。渡世でがんじがらめの組員より、彼らの方がたちが悪いってね」
「まあ、確かにそうかもしれないね。奴らからは危険な匂いが、かなりするからね」
「それで、結局、本当にあの場所にホームランボール、飛び込んだら取っていいの?」
天美が尋ねてきた。
「天ちゃん仮定な話はやめましょう。そんな、確率的に少ないときのお話をするのは」
「ちょっと数弥さん!」
ここで天美が小声ながらも鋭い声を上げた。そして、そのまま次の言葉を、
「確率少ないって、だったら、どうしてこんな作戦、選んだの。もしかして、この広い外野スタンド、ホームランボールどこ飛んできても、大勢の人たちの間走ってわったしが取れると思ったの。まさか、そこまで、考えてなかったとかはないよね」
「それはそのー」
数弥の言葉が濁った。そして、競羅も口を開いた。
「どうやら、図星だったようだね。あんた、そこまで考えていなかっただろ。実際、この子のユニホーム姿見たさに作戦を考えたのではないのかい。まあ、こっちとしては作戦が失敗してもかまわないけどね。今日で楽しみの一つが減るのは勘弁してもらいたいから」
競羅の言葉が終わるのを待っていたかのように、上方から、ジェット気流のような電子音が聞こえてきた。と同時に激しく何かが光り始めた。思わず絵里が口走った。
「始まるよ。本当は、これを直接見たかったんよ!」
そして、今まで球場のCMが流されていた、外野席観客用のモニターが切り替わった。
球場内に女性の声が流れてきた。
【お待たせいたしました。帝都チャンピョンズ対横浜HOWライトラインズ第十一回戦、両チームのスターティングメンバーならびにアンパイアのお知らせをいたします。
先攻の横浜HOWライトラインズ 一番ライト与野・背番号23 二番レフト鴨池・背番号7 三番ファースト、ウイリアムス・背番号4 四番センター、ガーナー・背番号9 五番サード久野・背番号5 六番ショート河合・背番号31 七番キャッチャー道尾・背番号33 八番セカンド境・背番号6 九番ピッチャー緑川・背番号12 監督、宇治谷光雄・背番号70 続きまして、ホームチームになります】
ここで、アナウンスが止まった。そのあと球場内を駆け巡るような光がほとばしり、モニターに【王者光臨】という虹色の文字が映った。
そのあと、画面にフラッシュバックのように、王者の選手たちが次々と登場した。そのショートムービーは約二分間ぐらいか。過去の優勝シーンとか名場面のダイジェストとか、
ムービーが終わり、王者の応援団の演奏が終わるかを待っていたように、
【後攻の帝都チャンピョンズ 一番ライト大友・背番号10 二番ショート有吉・背番号7 三番ファースト、オルソン・背番号49 四番センター屯倉・背番号8 五番サード、マーティ・背番号44 六番キャッチャー下条・背番号9 七番レフト金子・背番号21 八番セカンド森井・背番号6 九番ピッチャー、ギラート・背番号15、監督、富島和典 背番号88 球審・竹尾 一塁・藤 二塁・木戸 三塁・志賀、以上、四人の審判で本日の試合を進行させていただきます】
アナウンスが終わると競羅が声を上げた。
「昨日は、これを見なかったわけだね」
「そうす。開始一〇分前に入りましたから、終わっていました」
「王者の方は、実際、選手が光臨してきたみたいで、まあ、なかなかの見世物だったね」
「ええ、ライトラインという名のお株を奪うような光の演出でしたね。でも、今はどこの球場でも、これぐらいの演出はしますよ。ファンサービスあっての球場すから」
「しかし、不公平に見えるね。王者の方は、紹介の合間に入る応援団のチャチャを入れたら、相手の三倍ぐらいは時間を取っていなかったかい」
「ホームチームすから不思議でもないすよ。ある球場では、メンバー紹介の声までビジターは女性、ホームチームは男性と区別をしているんすから」
「へえー、それは露骨だね。みんなは、文句を言わないのかい。さて、何にしても、上から、これだけの音が降ってくるのだから、絵里が大きなスクリーンで見たくなる気持ちもわからないでもないね」
「そうすけど、僕たちには別の仕事がありますから」
「ああ、そうだね。それで、試合の展開はどうなるかな?」
「そんなの決まってるよ。今日は王者が相手を滅多打ちにするよ!」
絵里がそう声を出した。
「滅多打ちなんかされたら、塚間投手が出ないだろ」
「おや、姉貴、ハマの死神が好きなのかよ。今日は出番はないよ」
「ハマの死神?」
「そうよ。塚間は鎌を持つと言われてるんよ。鎌を持った男、つまり死神。だから、みんなハマの死神と言って恐れているんよ」
「そうでしたね、あだ名はハマの死神。一五〇キロを超える高速スライダーが斜めに鋭く切り裂くように落ちてきますから、それが、死神のふるう鎌にたとえられるんすね。実際、アウトになるのは殺されると一緒すから」
数弥が中に入ってきた。そして、天美も声を上げた、
「そんな、すごい人なの? 昨日から言ってるけど」
「そうすよ。左バッターなら食い込むように鎌が向かってきますし、右バッターならバットの軌道から逃げるように鋭く落ちるんす。だからこそ、防御率0点台なんすよ」
「まだ、よくわからないけど」
「天ちゃん、だいたい一六〇キロの球をとらえることができますか」
「それは、さすがに」
「でしょう、塚間投手は、その速球を持ってるんす。そして、その同じ投げ方で、打者の手元でボールが鋭角に落ちるんすから、打てないんすよ」
「やっぱり、聞けば聞くほど化け物だね」
「だからね、そんな出番はねえって言ってるのに、とにかくね、今日のHOWの先発は緑川よ。軽く見て五点は取るよ」
「ええ、一応、ローテーションの一角すけど、安定したピッチャーじゃないす。投げてみないとわからないという感じで。実際、立ち上がりが悪いと大量点ということもあります」
「それで、王者の投手は?」
競羅が尋ね、絵里が答えた。
「ギラートよ」
「そうす、ギラート投手す、この選手も配球は悪いすけど、力のある球を投げます」
「外人さんかよ」
「ええ、ドミニカ出身の速球ピッチャーす。彼も一五〇キロ以上は余裕に投げられます」
「一五〇キロか」
「ええ、二球のうち一球は一五〇キロを超えますから」
「これはもう、Sコースうんぬんより、王者の勝ちが見えたのじゃないのかい。九回までもつれずに勝負がつくような感じがするのだけど」
「試合はやってみないとわかりませんよ」
「確かにそれも言えるね。さて、試合開始までは、あと一〇分ちょいか」
競羅はバックネットに掲げてある大きな時計を見つめていた。