その六
六
一塁側スタンド内では勝利を告げる紙吹雪が舞い上がっていた。敗戦濃厚からの、逆転サヨナラ勝ちに、ライトスタンドの王者ファンたちは大興奮である。トランペットが鳴り響き、太鼓がガンガンたたかれていた。
王者のベンチも、これ以上ない喜びで屯倉選手を迎えていた。
逆にノーヒットノーランを逃した上、土壇場で、サヨナラ負けをしたHOWの方の応援団は、お通夜状態だ。静まりかえった状況である。
打たれた福住投手も、あまりにものことで、マウンドで放心し、ひざまづいていた。
バックネット裏VIP席の男は上機嫌である。Sコース達成に、満面の笑みを浮かべて拍手喝采をしていた。そして、横に待機している黒服に向かって指示を出した。
「おい、口座を確認しろ」
一方、HOWの監督は納得をしなかったのか血相を変えてベンチを飛び出していた。
天美がサヨナラ劇で目を丸くしているなか、声を出したのは競羅だ。
「まいったね。初球を、いきなりとはね。それより見たかい、あんた。あの一塁二塁の走者たち、打った瞬間に走っただろ。だから、ホームに余裕で駆け込めたのだよ」
「わかってる。さっき言われたように打ったの見たら、どんな時も、すぐ走るのでしょ」
「いや、それは状況によるよ。ノーアウトやワンナウトでは、打った瞬間、すぐ走っていけないよ。ゴロの時だけだよ。もし、打球が小フライかライナーだったら戻れなくなってアウトだからね。ツーアウトだから、打ったの見たら、即、走っていいのだよ」
「言ってること、よくわかんないけど」
「仕方がないね、次その機会があったら教えるよ。それより、試合の話に入るけどね、九回裏、始まったときは、まったく、こんな、展開になるとは思わなかったよ」
「ええ、野球は筋書きのないドラマとも言いますけど、ノーヒットノーランを目指していた選手が、サヨナラ負けとは現実は残酷すね」
「何にしても、奴の勝ち。こっちは、無駄骨だったということだよ」
「ですが、もともと、今日は様子見で・・」
数弥はそう答えていたが、グラウンドを見ながら声を上げた。
「ちょっと待ってください。さっきから、HOWの宇治谷監督が主審に詰め寄っているようす。三塁塁審の方を指さしていますね」
「あ、あれね。あれは、ファウルだったから」
天美が声を上げた。
「ファウルすか」
「そう、ボール、はねた場所、数弥さんの説明してたラインの外だったから、こういうこと、しっかり見てたの。でも、点入っちゃったから、そんなものかなと思って」
「なるほど、きっと、そうすよ。今は試合終了のあとでも、抗議が認められますから。抗議ができる時間は、フェアファールの判定から三十秒以内す」
「そうか、いつのまにか、認められるようになったのだったね」
「ええ、昔は審判が絶対でしたからね。今日みたいな試合を左右する判定のときでも、従うしかありませんでした」
競羅たちの会話中、抗議を受けた主審たちは三人の塁審を集めて協議をしていた。その協議が終わると、マイクを持ち、球場内の観客たちに向かって声をあげた。
『ただいま、HOWの宇治谷監督から、屯倉選手の打球がファウルではないかとのご指摘を受けました。よって、試合成立を巡り、しばらくの間、お時間をいただきます』
主審の声に、HOWファンが集まるレフトスタンドから大歓声が巻き起こった。帰りかけたファンたちも場内放送を聞いて次々と戻ってきた。時間は、まだ八時一分。土曜の夜のため、ゆっくりできるからだ。
王者の応援団は静かなものである。成り行きを見回っているか、競羅が声を上げた。
「どうなるのだろうね、この先?」
「ええ、今、ビデオを見ているのだと思います。あっ、写りました」
数弥の言葉の途中、モニターに屯倉が打った場面が写った。ドーム上からのカメラらしく、打った瞬間と、その打球の行き先をはっきりとらえていた。
スローモーションで見ると、ボールはファールラインの外側をはねていた。レフトスタンドから歓声の声が起こった。数弥が思わず声を出した。
「これは、確かにファールすね」
「ああ、真上からのカメラか、見ようによっては、ヒットと間違えそうだね」
「ええ、まだ、フェアだと思っている王者ファンもいるでしょう。ですが、屯倉選手、初球の内角低め、ボールになるシュートすか、食い込んでくる難しい球を打ちましたから。確かに、あれは窮屈な姿勢になりますから、やはり、ファウルすよ」
「とにかく、成り行きを見ていくしかないね」
主審の松野が出てきた。観客たちが息をのむ中、主審は両手を大きくあげた。
レフトスタンドからは、ウオーと、うなる声が巻き起こった。
そして、試合が続行となり、HOWの選手たちは守備に戻った。数弥が声をかけてきた。
「HOWは命拾いをしましたね」
「ああ、けどね、結果は一緒だろ。きっと、奴は今でも、心の中は余裕だよ」
「ええ、そうかもしれませんけど、僕としては・・」
そのとき、もう一歓声、レフトスタンドから起きた。そして、数弥の興奮した声が、
「あっ、姐さん、塚間投手がブルペンに現れました!」
「おい、本当か」
「ええ、今、ブルペンでボールを投げ始めました」
「ということは奴に投げるのか!」
「まだ、投球練習をし始めたばっかりすから、すぐに、登板はないとは思うんすけど。僕も先行きはわかりません」
「これは、面白くなるね」
競羅はにんまりと笑った。
「ええ、そうすね。成り行きを見ましょう」
再び。屯倉がバッターボックスに立った。
キャッチャーは体を傾けホームベースから、大きく一塁側に離れたところにミットを構えた。普通では打てない場所だ。それを見ていた数弥が口を開いた。
「これは、四球で歩かせる気ですね」
「いや、ここは敬遠だろ」
「ろこつな満塁はまずいす。だから、一応、バッターと勝負してように見せかけるため、ああいう大きくベースから、離れたところに構えているんす」
「どこだって、ただ、打てばいいだけでしょ」
天美がそう言った。
「天ちゃん、屯倉選手の足下に、白い長方形のわくが見えるでしょ」
「もしかして、打つとき、あの枠出ちゃいけないの」
天美はハッとしたような顔をして答えた。
「そうすよ。バッターボックスと言いまして、打つ瞬間は踏んでもいいんすけど、完全にその枠から足が出たらだめす。ボールがバットに当たった時点で反則行為ということでアウトす。打ったあとの勢いで足が出た場合は問題がないんすけど。それと、ボールにあたらなかった場合は関係ありません。からぶったら、ただのストライクす」
そのとき、球場からわーっと歓声が起きた。屯倉選手がボールに飛びついて、バットを振ったのだ。球はバットの先っぽに当たり、一塁ベースの前で跳ねると、そのまま、線を超えて転がっていった。ファールだ。
「今のは?」
競羅の声に数弥は、
「確かに打ったあとに、ボックスから、大きく足が出てましたけど、空中だったから認められたようす。しかし、さすが屯倉選手すね、もう少し、バットの内寄りに球が当たっていたら、一塁線を抜けていくヒットでしたよ」
今のヒット性の打球で肝を冷やしたのか、HOWのキャッチャーはベンチを見つめ、そして指令が出たのか主審に声をかけた。主審は一塁ベースを指さした。
結局、屯倉は不満そうな顔で一塁に向かった。
「やっぱり、また、この子に勉強になること、やってくれたよ」
「ええ、そうすね。姐さんの思ってた敬遠すね」
その天美は妙な顔をしていた。数弥はその天美に向かって、
「今のわかりましたか?」
「急に一塁行ったよね」
「ええ、行きましたよ。あれは故意四球す。審判に申告すると、相手を一塁に生かすことできるんすよ。昔は、さっきみたいに、ベースから遠い球を投げていましたが、あのように当てようと思えば、当てることができるので。時間短縮を含め申告だけになったんす」
数弥はそう説明をしていた。
屯倉選手が一塁に行き、場面はツーアウト満塁である。指名打者のマーティは、ものすごい目でHOWベンチをにらんでいた。敬遠、それも普通では考えられない、一、二塁から満塁になる敬遠であったからだ。それを見て競羅は、
「あの五番、かなり、燃えているだろうねえ」
「そうかもしれませんね。前のバッターを避けて自分と勝負をするんすから。まして、一塁二塁から満塁になるんす」
「ああ。こんな、なめたことをされたら、絶対、その後悔をさせないとね。こっちだったら、得意のスイングで、ボールを彼方に飛ばしてやるよ」
「へー、そうなんだ」
天美は笑った、そして言った。
「だいたい、本気で戦う時なんて、頭血登ったら、だめなのよね」
その言葉通り、冷静でないマーティ選手は、初球を大きく空振りした。
「あーあ、きっと、気負ってる」
天美が追い打ちの言葉をかけた。ところが、福住投手も冷静ではなかった。
二塁有吉、三塁大友、二人のランナーは、何度も大きなリードを取って、牽制球を投げさせているのだ。競羅は天美に向かって言った。
「また、いい教材があるね。しっかり、見ているかい、あれが、走者のリードというものの取り方だよ。ああいう風にベースから離れて、相手の投手をゆさぶるのだよ」
「つまり、ランナーとして出たら、あのように、すればいいわけね」
「そういうことだよ。それとね、あの投手の方も、さっきから、ボールを三塁に投げてるけど、あの意味がわかるかい?」
「もしかして、脅かしているのかな」
その天美の返事に競羅は少し、びっくりした目をした。そして、
「おっ、脅かしかよ」
「だって、ゆさぶってるのでしょ。それ、やめさせるために、投げてるのじゃない」
「確かに走者を、簡単に次の塁に行かせないために投げてるのだけどね。投手からの球が受け取った選手のグラブにおさまったとき、走者はベースに絶対に戻っていなければならないのだよ。もし塁にもどれなくて、そこを、タッチをされたらアウトになるのだよ」
「ええ、だから、牽制球といいます。姐さんの言う通り気をつけないとアウトになります」
「ふーん、見た目、七メートルか、あんなにとってもいいんだ」
天美は微笑みながら言った。
「わかるのかよ」
「それは当然、こういうこと、里でしっかり教えられたから」
「でもね、天ちゃん、これは、あくまでも三塁にランナーがいるからすよ」
「そうだよ。数弥の言うとおりだよ、三塁に走者がいるからなのだよ。よく考えてみな。さっきから、ピッチャー、一度も二塁に牽制球投げてないだろ、三塁だけで」
「確かにそう」
「もし、投手が二塁に牽制球をなげる、投げたと同時に、二塁三塁両方の走者が走り出す、投げたボールは二塁手のグラブに収まったとする。その二塁手、もう、ホームに投げても間に合わないよ。あの選手足が速そうだから、これで同点だよ」
「そ、そんなことしていいんだ」
「だから、こういう観察は大事なのだよ。もし、二塁にカバーが入らなかったら、ボールはセンターに抜けて、二走者が返ってきてサヨナラだよ」
「なるほどー それ面白い、いずれ、やってみよかな」
「姐さん、悪いこと教えちゃいけません。そんなの、いつも、やっていたら大変す」
「ははは、そうだね。今夜みたいなときしか、使っちゃいけないよね」
「そうす。終盤で一点を争う時だけす。点差が離れてたら意味がありませんよ。ものすごい、ひんしゅくを買いますよ。こういうことがあるから、うかつに、満塁にしてはいけないのですけどね。ですが、福住投手としては、ただ、バッターに専念をすればいいことだけす。見てください、もうツーストライクとってます。あっ、投げました」
その言葉通り、福住投手は渾身の一級をマーティに向かって投げ込んだ。マーティのバットは大きく空振りをした。
《ストライクバッターアウト・ゲームセット》
二度目の主審の終了コールが起こり、今度こそ試合は終了した。
終了とともに、今度はレフトスタンドから紙テープが、ライトラインズの応援団へのあいさつが終わり、ヒーローインタビューが始まった。
むろん、お立ち台にあがったのはノーヒットノーランを達成した福住投手だ。福住投手は、地獄から生還したようなゲームの展開に興奮した口調で、インタビューを受けていた。
インタビューを見つめながら数弥が声を出した。
「判定がひっくり返らなければ、あそこにいるのは、屯倉選手だったんすよね」
「ああ、そうだね。しかし、まさか、こんな、展開になるとは思わなかったよ。こうなったからには、明日も、ここに来るのだろ」
「ええ、そういうことになります」
「これは、明日は荒れるだろうね」
競羅はなんとも言えない顔をしてつぶやいていた。




