第3章 日常~憧れの甘いパイ
シドは好奇心が強く、頭のいい子だった。
あっという間に文字を憶え、計算ができるようになり、ラリサの書庫の写本を漁るようになった。
まだ黙読は苦手だったが、音読なら割合と長い文章でも読めるようになっていた。
とある写本で、古い英雄譚を読んでいた時のこと。
「助け出されたお姫様は、焼きたての甘酸っぱいパイを一口、頬張りました。とろけるような甘さと、果実の酸味に、お姫様はうっとりとしてしまいました」
声に出して写本を読み、シドは、もう一度同じところを読み返した。
そして、口の中をよだれでいっぱいにした。
「うううう~~、僕もこんなパイ、食べてみたいよぅぅぅ」
ラリサが料理が下手だというわけではない。まあ、概ね豪快な料理が多いのは性分だろう。
そして彼女はお菓子を滅多に作らない。
「やっぱり、僕が作るしかないよね!」
シドは書庫を出ると、そろりそろりと厨房に向かった。
とっておきの高い棚の上に、精製したお砂糖の壺が隠されているのだ。
踏み台を持ってきて、その上でうーんと背伸びをする。届かない。もうちょっと、もうちょっとで届くのに。僕の大好きなお砂糖に!
「シ~ド~!」
鬼のような声が聞こえた。シドは踏み台から滑り落ちた。
目の前に、仁王立ちしているラリサは、お仕置き用に使いこまれて曲がったおたまを持っていた。
「あれほど砂糖を狙うなと言っただろうが~!! 砂糖は貴重品なんだ!! 覚えろ!」
「だって、だって、蜜じゃあんな美味しそうなパイ、焼けないもんー!」
「ぱい? この陽気に?」
ラリサは顔を引きつらせて、窓から燦々と降り注ぐ陽光にちらりと視線を流した。
「……ふ、ふーん、まあ、やってみればいいんじゃね? ただ、蜜を使えよ。砂糖は禁止だ!」
失敗は身をもって体験させる信条の、ラリサであった。
「えー! お砂糖のほうが甘いのにー!」
「蜜なら失敗しても惜しくねぇ! ほれ、蜜壺出しといたからな、これでやれよ、これでな!」
不満そうなシドを残し、ラリサは砂糖壺と共に退場する。
「ふーんだ! 美味しく出来たって、ラリサなんかには一口も分けてあげないんだもんね!」
半べそで、蜜と粉と卵を容器に移し、混ぜ始めるシド。
だが、パイなんて作ったことがないし、写本の挿絵しかわからない。
「とりあえず蜜をたっぷり入れて……」
ねちゃー。
生地が糸を引く。
「粉を足したほうがいいかな?」
以下、この作業を繰り返すシド。
気が付けば容器からはみ出んほどの生地が出来上がっていた。
しかも、ねちょねちょして、糸を引いている。
「ちょっと蜜を入れすぎたかなぁ。まあ、焼いちゃえば大丈夫だよね!」
木のスプーンで、油を塗った天板に生地を並べ、薪ストーブの中で焼くことしばし。
「さて、出来上がりは……」
天板を出してみる。
黒く焦げて糸を引いているナニカ、そう、馬糞にしか見えないそのナニカが、彼に絶望を与えた。
「ふ……ふんっ。僕、諦めないからねっ! そうだ、エステレルならどうにかしてくれるよ!」
ラリサがダメなら、頼れる大人は彼しかいない。
シドは生地を入れた容器を持って、エステレルの姿を探しに森へと向かった。
エステレルは薬草を摘んでいるところだった。
シドの容器の中を見て、「これは何ですか?」と微笑んでくれる。
「パイ」
「ぱい?」
エステレルは空を見上げた。梢越しに、燦々と差し込む初夏の日差し。
「え、えっと、ですね……パイっていうのは、冬の寒い時期に作るものなんですよ?」
引きつった笑顔を浮かべながらも、丁寧に教えてくれる。
「生地とバターを何度も折りたたみまして、層にするんです。だから、焼くとバターの層が溶けて、さっくりと仕上がるんですよ。この陽気では、バターが生地と混ざってしまって、パイを作るにはいささか難しいのではないでしょうか……?」
シドは説明を受けて気づいた。バターだ! バターなんて入れてない!
蜜に気を取られて、すっかり頭から抜け落ちていた。
「じゃあ、このケーキ、エステレルならどう改良する?」
恐る恐る、焼きあがったモノを見せる。
「……」
「わああん、エステレルまで馬糞って思ったぁぁぁ!!!!」
「あわわ、それはその、えっと……ほかにこれを表現する術がですね……」
慌てふためきつつ、エステレルは、ばか正直に認めた。
嘘がつけない性格なのだろう。
「とにかく、焼いちゃったものは二度焼きして、ビスケットに出来ないか試してみましょう。生地のほうは、少々粉を足して、あと、パイにするのも諦めて、摘みたてのベリーを入れて、ケーキにするのは如何ですか?」
「ベリーケーキ! 美味しそう!! それでいこうよ!!」
シドの顔がぱあっと明るくなった。
エステレルを連れてラリサの家に案内する。厨房に入ると、早速手を洗い、2人は生地の手直しとビスケットづくりに取り掛かった。
「いいですか、シドくん。ビスケットというのは、二度焼きパンという意味ですからね。水分を飛ばして保存食にするものですから、じっくり弱火で焼いて、乾かしてくださいよ。薪を足し過ぎたりしたらダメですからね」
「僕のことはシドでいいよ。僕もエステレルって呼んでるし。じゃあ、火の番を頑張るね!」
生地の手直しをエステレルに任せ、シドは薪ストーブに貼りついた。
(まだかなまだかな~)
つい気になって、何度も何度も、中を覗いてしまう。
その間、エステレルはというと、(でも私、お菓子なんて作ったことないですよ……)と、内心で困惑しながら、生地の調整をしていた。
蜜が多すぎるのはわかっている。粉を足して、洗ったベリーを入れて。さてどうしたものか。
(まだかな~まだ乾かないかな~)
シドはビスケットの完成が待ち遠しくて堪らない。何度も何度も中を覗いて、(早く乾け~!)と薪を足す。
弱火だった火の勢いが、徐々に徐々に強くなり、やがてめらめらとストーブの中で踊るほどになった。
無意識に酵母を混ぜて生地をこねていたエステレルの鼻に、異臭が届いた。
「シド? 弱火でちゃんとカリカリになるまで、辛抱強く乾かしま……?」
そこには、えぐえぐと泣いているシドの姿。
取り出した天板に並んでいるものは――。
「炭、ですね。紛れもなくっ」
「わああん、そんなはっきり言わなくてもっ!」
シドはぐすんぐすん泣いていた。
「ちゃんと弱火でじっくり乾かしました? 薪を足したりしなかったでしょうね?」
「……ごめんなさぁい」
シドはケーキのなれの果てを見つめ、滂沱と涙を流した。
「おおい、焦げ臭ぇんだが、2人揃って何してやがんだ?」
臭いを嗅ぎつけ、家の主であるラリサがやってきた。出来上がった炭の量に、唖然とする。
「ま、まあ、シドは初めてだしなっ。次に失敗を活かしゃあいいんだよ。で、エステレルは何を作ってるんだ?」
「ベリーケーキだって!」
エステレルが口を開く前に、シドが声を上げた。
(いえ、あの、最初はそのつもりだったんですが……)
「ベリーケーキか、それは楽しみだな。ティータイムも近いし、期待してるぜ」
ラリサは嬉しそうににこにこして、厨房を出て行った。
「あ、あの……」
エステレルがおどおどと声をかけようとした時には、ラリサの姿は既にない。
(どうしましょう……お菓子なんて作ったことないですし、それに、気づいたらこれって……)
魔のティータイムが近づいてくる。
張り切って高級なお茶を煎れてくれたラリサだったが、テーブルに並んだモノを見て、期待にあふれていた笑顔が凍り付いた。
「すみません……お菓子は作ったことがなくて、無意識にですね……つい」
肩を落とし、エステレルが謝る。
そこには、ベリーの混ぜ込まれた焼きたてのパンが、並んでいた。
「……ベリーケーキはどうした?」
「美味しいよ、このパン!」
焼きたてを頬張り、満足そうなシド。
期待を裏切られ、真っ白い目線をエステレルに向けるラリサ。
「シド、有難うございます。でも全くフォローになっていません……」
「そうかな? でも美味しいよ、このベリーパン!」
「折角のティータイムにパンかよ! あーあ……ベリーケーキ食いたかったな……」
「……すみません……」
しょんぼりするエステレルに、「ま、おめーも菓子作ったことねーんなら、仕方ないわな」とラリサはフォローを入れ、「なかなか旨いんじゃね?」とエステレルのパンを食べ始めた。




