第3章 転げ落ちる石のように
ヨーナが2人の姿に慣れるまで、然程かからなかった。
闇エルフは脅威だと故郷で聞かされていたけれど、目の前のシドは普通の小さな男の子だった。
エステレルは義視力を与えた魔石を義眼にしているのだと説明し、ヨーナは納得した。
2人への恐怖がなくなると、ヨーナは、助けてもらった恩を返そうと、奮起した。
まず、ラリサの負担を軽くするため、得意の料理を担当することにした。
掃除も洗濯も、手を抜かずに頑張った。(エステレルの私物にだけは触らせて貰えなかった)
ラリサが帰宅する頃を見計らって、湯船に湯を張っておくようにした。
最初のうちは良かった。
ヨーナは気が利く働き者で、3人に歓迎されたし、実際に助かってもいた。
だが。
「そう言えばシド、最近弓を放置していますが、練習や手入れはしないのですか? ラリサに、日頃から鍛えておかないと、いざという時になまって弦が引けなくなると言われませんでした?」
「だってめんどいし。ヨーナもやれって言わないし」
徐々に、シドの態度に変化が現れてきたのだ。
今までは、良いことをしたあとに、ご褒美としてしか食べさせて貰えなかった甘いお菓子を、ぼりぼりとむさぼるようになっていた。
しかも、ベッドにだらしなく転がった状態で。
ヨーナは叱らない。
「美味しいですか? シド」
そう言って、微笑むだけだ。
ラリサだったら鉄拳制裁が待っている。
間違いなく。
「ヨーナぁ、綿あめたべてみたーい。作って~」
「綿あめは難しいですね。でも、シドのためなら頑張っちゃいますよっ」
「ヨーナぁ、甘ーいパイって作れる?」
「バターが足りませんね。すぐに買ってきますから、待っててくださいね」
「ヨーナぁ」
「あまーいリンゴのジュースがありますよ。運びましょうか?」
エステレルは見ていられなかった。ヨーナは、シドの奴隷のようになっていた。
機嫌をとるために甘いものをどんどん与え、懐かれて、これが愛情だと満足していた。
(こんな姿、今までストイックに育ててきたラリサが見たら、泣きますよ……)
貯蔵庫から、高価な砂糖類や果物が消えていく。
ヨーナはラリサの持ち帰る日当にも手をつけ始めた。
「エステレルさんは、何かご入用なものは無いんですか?」
「ええ。無いですよ」
「ひとりで難しそうな巻物を読んでいらっしゃるのね。何が書いてあるんです?」
「魔術についてです」
「勉強熱心なかたね」
「それがどうかしましたか?」
「いえ……その……そうです、休憩を取りましょう。シドと一緒に、お茶にしませんか?」
「遠慮します。読書の邪魔をなさらないでください」
シドの堕落っぷりは目に余る。
エステレルはヨーナを警戒した。
あんなにべたべたに甘やかして、好き放題させて。
この先、シドは厳しい旅路を生き抜けるのか、不安にもなった。
ラリサに相談すべきだ、そう気づいた。
家長はラリサだ。借り賃を払っているのも彼女だ。
だが、エステレルが気づいた時、ヨーナはラリサへの態度を既に改めていた。
「ただいま」
雪運びで疲れ切った体を引きずり、ラリサが仕事から戻ってくる。
「……」
以前なら、足音を聞きつけて飛びつくように出迎えていたシドが、来なくなった。
以前なら、風呂に湯が張られていて、冷え切った体をすぐに温められた。
以前なら、夕食が配膳されて、皆が待っていてくれた。
以前なら。
今は。
ラリサの夕飯はなかった。
ヨーナは「日当、この袋に入れてくださいね」と迫り、今日の稼ぎを全額奪った。
ラリサは(買い物に使うのか?)とぼんやり考えていたが、実はシドの甘いおやつに化けるのだ。
シドはと言うと、ご飯を食べなくなっていた。
お菓子でいつも満腹なのだ。
ベッドからも殆ど下りないので、ぽちゃぽちゃと太り始めていた。
「ヨーナぁ」
呼びつければすぐに来るヨーナ。甘いお菓子を言えば買ってきてくれるヨーナ。
だぁいすき。
いつまでもこんな生活していたぁい。
「ラリサ、食事はいいんですか? 私が用意しますよ」
エステレルは、疲れ切って舟を漕いでいるラリサに、そうっと声をかけた。
だいぶ眠そうだ。話は明日にするしかなさそうだった。
そうしている間に、日々が過ぎていく。なかなかラリサと話すチャンスは来なかった。
「エステレル」
ある時、ヨーナに呼ばれた。
「ヨーナさん、何か御用ですか?」
「ラリサのことはどうして呼び捨てになさるんですか? わたしは、さん付けなのに」
「それがどうかしましたか?」
エステレルは無関心を装った。
「シドのことも呼び捨てですよね。わたしだけ、どうしてわたしだけ? もう、一緒に暮らし始めて、だいぶ経つのに、何故わたしにだけ、そんなによそよそしいんですか」
「だいぶって言われましても、たかだか数か月でしょう?」
エステレルは淡々と答えた。
「ラリサやシドとは、もっと長いですからね。当たり前と思いますが?」
「わかりました」
ヨーナはじいっとエステレルをねめつけた。
「エステレルは、ラリサのことが好きなんでしょう」
「……どうしてそういう結論になるのか、分からないのですが……?」
ため息をつき、エステレルはやれやれと手を振った。
「だって、あなたは、わたしにはちっともなびかないじゃないですか」
「興味ないです」
「適齢期の女性がこんなに近くにいるのに? まっとうな男じゃないわ!」
「まっとうな男じゃなくて結構です」
ああ、くだらない。エステレルは、泣き出したヨーナから視線を外した。
シドの扱いを見、ラリサの金に手を付けているところを見て、既にヨーナには同情の余地もなかった。
正確には、軽蔑に近い感情を抱いていた。
「ラリサ遅いですね。迎えに行ってきます」
エステレルはこれ以上絡まれたくないとばかりに、部屋を出た。背後で何ごとかをヨーナが叫んだが、気にしなかった。
雪がローブをはためかせる。積もった雪が白く光って、夜道なのに全く暗く感じない。
ラリサは町の酒場にいた。雪かき仲間と一緒に、仕事あがりに飲みに行っていたのだ。
エステレルが店内で見つけた時、彼女はほぼ泥酔状態だった。