第0話 はじまり ※2019.8.18 修正
温かな日差し。
柔らかな風。
揺れるのは真白に透けた窓掛け。
どうやら俺は泣いているらしい。
何故?
はらはら、はらはら。落ちる温かな雫は手の上を滑って、毛足の長い絨毯の上で繊維に溶けることもなく大きな雫に成った。
何故こんなにも胸が痛いんだ?
理解できずに上げた顔。日差しで白んだ視界に一つの影。まだ幼いそれは俺を護る様に立つ。
あぁ、またあの夢か。
もう何度も見てきたから、これからどうなるのかなんて分かりきっているのに。俺は相も変わらず恐怖で一歩も動けない。
そんな俺を気遣う小さな影の向こうで、吼え散らかす粗暴な輩達は怒気を武器に乗せて襲い来る。
―――逃げて!
叫んだのは誰だったか。
―――にぃちゃんっ!!
―――ミンツ。
今の俺なら守れるのに。
「ミンツ」
しっとりと艶を含んだ、先程脳内で悲鳴を上げた声とは違う音に、意識が現実へと引き戻される。
ぼんやり霞んだ目に映る真っ赤な月は二つ。今夜は雲もなく、薄汚れた硝子窓から差し込む月光は酷く明るく見える。
瞬きを一つ。
靄の掛かった思考が幾分か覚醒する。
瞬きをもう一つ。
視線を上げれば、格子模様の影を背負った人影が僅かに動く。
「ふふふ……」
室内は異様に暗い。
視線を滑らせるが蝋燭の一つもなく、冬でないにしろ、気温の低いこの地で炉に火もない。そこまで来て漸く、立ったまま白昼夢を見ていたのか、と思い至り、どこか他人事の様に呆れてしまった。
こう言った夢は昔からよく見る。それ本当に珍しくベッドに転がった時であったり、戦場で剣を振るう一瞬であったり、時と場所を選ばず視界を奪う。我が師団の優秀な医師によると、解離の際に記憶が混じる事があるらしいから、気にする必要もないか、と溜息を一つ。
そう言えば俺は一体、何をしているんだったか。
「ねぇ」
声に誘われ、僅かに上がる目線。
真っ赤な月光を負った真っ黒な人影は、口角を引き上げて笑みを作る。彼を彩るのは金糸も豪奢な窓掛け。人目も気にせず開け放たれたそこから望むのは城外か。
「ねぇ、聞いてた?」
くすくす、と少女の様に喉を鳴らす人影が一歩。
足音はない。
空気が動いたせいか、濃い花のニオイが鼻腔を撫でる。
「ねぇ、何を見てるの?」
薄く唇を引く男。
知らないニンゲンだ。
彼が細腕を上げる。流れた袖口。布擦れの音から絹だと分かる。
「ねぇ、俺を見て?」
何時の間に開かれたのか。首まで覆い隠していた筈の軍衣の口から、異様に冷たい指先が滑り込む。
肌がざわつく。
それは興奮ではなく、単純な拒絶。そこで漸く、不快と感じたのか、と気づく。
鼻が痛い。
それはきっと目の前で笑う男のせい。彼が振り撒くニオイは強烈で、都人が言う純血でない自身にとっては拷問に近かった。
「ねぇ、聞こえてる?」
甘える様な柔らかな声。
それが連想させるのは、自身が嫌う猫。
吐き気がする。
「ねぇ、ってば」
影の落ちた身体を摺り寄せ、男がしなだれかかって来た。別段重くはない。それでも身体が大きく引いたのは本能がそうさせたから。
男が笑う。
「怖気づいた?」
まるで悪戯が成功した子供の様に。
覚える既視感。
過るのは愛しい灰の目。
「ねぇ?」
仔猫なら喉が鳴ったかもしれない。
細められた目に自身を見る。
反射的に手が出た。
「っ」
彼の首に手が掛かる。
僅かばかりの抵抗。上下する喉仏が、押さえ込んだ親指を擽る。
「コワイ顔」
笑う彼は、依然として冷たい指先を首元に絡めたまま、空いた手をするり、と滑らせて自身を鷲掴む腕を撫でた。
「ねぇ、離して?」
上目に強請る彼に感じるのは夜のニオイ。
無意識に鳴った喉は捕食者たる本質か。
目を眇め、黙ったまま彼を見下ろしていると、貴族の娘を思わせる彼の端正な顔から笑みが消えた。
「なんだぁ。いつ気づいたの?」
そうして本性を晒した男が醜く顔を歪ませる。
粟立つ肌。
それは首筋を撫でられたせいか。感じた狂気のせいか。
「あんたには興味があったから、楽しんでからにしたかった」
顔面を割く様に赤く引き上げた口から洩れる殺意。
目端に光る物を捉え、反射的に視線が流れる。決して大きくはない平に握られた刃。何時の間に。考える暇もなく、気づいた時には後ろ頸を掴まれ、引き込まれていた。
丸く緩く曲を描く刃に、短い握り手。ナイフか、と思うが早いか、切っ先が眼前に迫る。
避けられない。
咄嗟に顎先を上げ、刃に噛り付いた。
軋む顎に安物の金属が音を上げる。
「くそっ!」
吼えた声に甘さはなく、ただ耳障りな低音として鼓膜を叩いた。
些か残念に感じたのは指向が見せる迷いか。
緩んだ隙に男が得物を突き入れる。力の限り押し込まれれば、刃が歯の上を滑って頬骨に突き立つ、鈍い音。そうして感じる肉を突き破る感触。同時に鋭い痛みが肩から指先まで突き抜け、思わず顔を顰めた。
男は頬を抜いたそれを再度引き、口内を犯そうと試みる。さすがに脳天を抜かれては動いていられない。逃げる腕を左で取って絞め上げる。大口を開けたまま丸めた背を伸ばし、首を振ると、歪に拉げた刃が、それでも易々と頬肉を引き裂いた。
舞う血に混じる唾液。
盗み見た男の顔は真っ赤な月光の許でも真っ青に見えた。
「ははっ」
声が漏れたのは、ようやっと覚醒した証であったかもしれない。
そうだ。こんなに分かり易い誘いに乗ったのは、最近、群れの周りをうろつく狼のニオイが鼻につき始めたせいだった。猟犬を使わずに自身で出向いておきながら、余りの退屈さに気も漫ろだった訳だが、面相も確認した事だし、やることは一つか。
怯む相手になど構わず、掴んだ腕を引き寄せたまま圧し掛かる。切っ先は自身の喉元。彼がもっと大柄で力が強ければ、容易くこの命を差し出せたかもしれない。
しかし体躯も力も自身に利がある。
「はぁっ」
重なる息。自然と仰け反る格好になった男。このまま腰を抱けば、彼が望んだ形になっただろうか。
滴った血を受けて不自然に細められる目が、自身の眼下で彷徨う。獣がそうする様に首を傾げ、焦点を合わせて覗き込むと、微かに上下する喉が見えた。誘われるまま齧り付いても良かったが、もう少し声を聞きたかった。
腕を外側へと引き、乱暴に身体を返して背を取る。
「うあっ!」
意図せぬ動きに平衡を失った男の膝下を払って、床へ押し付けた。重い音はしたが、感触は柔らかだった。腕を捩じり上げた左ではなく右で下を撫でれば、そこが毛足の長い絨毯だと分かる。
俯せた胸辺りで膝を付き拘束すると、下敷きになった男は呻いて返した。
落ちる静寂。
響く唸り声が自身の物だと気づくのに、僅かな時間を要した。
「イカレてるとは聞いていたが、想像以上だったな」
首を捻じ曲げ、苦しそうに喘ぐ男の声が潰れて聞こえた。
「まさか躊躇なく突っ込んで来るとは思わなかった」
あははっ、終わりは近いと気づいているだろうに、その表情は明るい。
「あんたともっと遊んでみたかったな」
「お前が望むなら」
「あははっ! 嘘だろっ? 顔に傷まで作っておいて?」
「直ぐに治る」
「あははっ! やっぱバケモンか、あんた!」
ひぃひぃ、と一頻り笑って、
「残念。俺も大概だと思ってたんだけどなぁ」
組み敷かれた男は酷く残念そうな声を出した。そうしてゆったり、と目を伏せる。その横顔が悲しく見えたのは、自身もやはりどこかはニンゲンであったからかもしれない。
「どうせなら二度と使われない様に残さず食べて」
その背に首を捻ったのが伝わったのか、
「なんだ、知らねぇの? 悪魔は死体でも操るんだぜ?」
小さな獲物はまた楽しそうに笑った。
「あぁ……」
そう言う事か、低く鳴る喉を止めることもできず、脈打つ彼の首筋へと唇を寄せる。
熱を増した頬より生が流れ落ち、彼を汚すが構わず、鼻先で髪を割れば彼はくすぐったそうに肩を竦めて見せた。
感じる体温。
甘いニオイ。
「あんたに喰われるなら本望かな?」
気づいた時にはもう、悲鳴もなかった。




