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黒の雄羊  作者: みお
序章
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序章     ※2019.8.18 加筆

「大きな、それは大きな狼さんが居ました。彼女はトカゲさんに言います。本を下さい。私にその本を譲ってください」



 木漏れ日が揺れる大樹の根元。丸く置かれた石椅子に座り、母親は優しく子供に語り聞かせる。



「トカゲさんは言います。勿論です。その代り、私に宝ものを下さい」



 愛らしい少女は母の膝の上に座り、手に余る程大きな毬玉を抱えたまま、楽しそうに身体を揺らしている。彼女は親から与えられる温もりと柔らかな声色に安心しきった様子で、時折、胸に甘えては本と母の顔の間で視線を泳がせ、大好きな優しい目に見つめられると満面の笑みで返した。

 なんとも穏やかな光景。

 母親の手にしている絵本は随分と読み込まれている様子が伺え、外へ出てもせがむ程、小さな少女はこの物語にご執心らしいと分かる。そんな夢想家は木漏れ日に揺れる挿絵を覗き込んだまま、脳裏で雄大な世界を旅しているのか、大きな栗色の瞳を希望で輝かせている。

 母は物語に夢中な我が子を見つめ、優しい笑みを一つ。そうして最早文字を追う必要もないのか、ゆったりと目を閉じ、まるで実際に体験したかのように語りを続ける。



「狼さんは喜んで宝ものを差し出しました」

「お母様。ねぇ、お母様? 狼さんの宝ものは何だったの?」



 食い入るように見つめていた絵本から顔を上げ、手にした鞠玉を大切そうに抱き締めた少女は、木漏れ日に揺れる大きな瞳に母を映す。

  もしかしたらもう何度も繰り返された質問だったのかも知れない。それでも、



「さぁ、何だったのかしらね?」



 母親は我が子と同じ色の目を細めて、優しく慈しむように少女の頭を撫でた。

 聖都の中央。大きく開かれた広場は都民の憩いの場。石畳が美しいそこは、木々に囲まれ、暑い日差しの中でも過ごしやすい。ちらほら見かける露店も賑わいを見せ、国民の活気を思わせる。

 その片隅で、行き交う人々の邪魔にならない様に馬を止めた騎士は、微笑ましい親子の姿を静かに見つめていた。その目が悲し気に見えたのは、彼女たちの笑顔に切なく胸の内が疼いたせい。理由はきっと沢山あるのだけれど。

 騎士は、気を抜けば直ぐにでも歪んでしまいそうな口元を誤魔化す様に、汗ばんだ額を乱暴に拭い、きっちり着込んだ軍服の襟元を少し緩める。

 聖都は今日も暑いのだ。

 誰に聞かせるでもない言い訳をうちで溢し、騎士は親子から目を移して、広場の向こう、通りを一つ挟んだ先にある大きな建物を見た。それは広場の木々より高く聳え、壁面の美しいレリーフを見せつける。ここは院の勢力圏。軍のモノは近寄らない場所。

 元より味方など居ないのだが、一瞬、躊躇った風を見せた騎士の背を、乾いた地面に影を落とす木々の隙間を抜けた風が、ふわり、と柔らかく押した。

 道行くモノ達は、そんな騎士の姿を遠慮がちに見つめ、遠巻きにする。場違いな異物は得てして目立つものだ。



「ふぅ……」



 汗ばんだ素肌に心地よい流れを感じ、緊張を解すように一息。騎士は目を細めながら、努めてゆるり、と馬から降りた。靴底がにじった砂の中で小さな石が不満そうな声を上げ、僅かに鼓膜を引っ掻く。細身だが長身の部類に入る騎士は、警戒の色を滲ませる人々にこれ以上の威圧感を与えないよう、なるべく普通に、何でもない風で腰に差した細身の剣を鞍にきつく結ぶと、愛馬の頬に手を添えた。



「先にお帰り、バーベイ。ペダルダに河へ連れて行ってもらうといい」



 言いながら、騎士は愛馬首元まで平を滑らせる。心地よさに目を細める彼の、汗ばんだ毛皮が木漏れ日に照らされて、日の下で風に靡く小麦畑のように、艶やかに健やかに、視界に映えた。



 ブルルッ



 バーベイは鼻息荒く、騎士の言葉を理解した様子でその大きな頭を主の胸に擦りつける。それが小さな猫であったなら、きっと主はよろめきもしなかった。



「今日の水浴びはきっと気持ちがいいよ」



 穏やかに紡がれる言葉に、バーベイは頭を下げる。そうして上目に騎士を見つめ、まるで別れが寂しいと言わんばかりに、白くしなやかな主の掌を甘く噛んで、首を振った。こうすれば、主の気を惹けるのだ、と知っている。

  しかし、



「直ぐに帰るよ」



  主の顔は笑みに苦さを増しただけで、その意思に曲がった様子はなかった。

 涼やかな風が流れて、草木が優しく鳴る。弾む子供の声に、規則正しく地面を噛む蹄の音。



「さぁ、いい子だから」



 一向に傍を離れる様子のない愛馬に、騎士が焦れた。

 主の声色と顔色を伺ったバーベイは、流石に折れる。彼は優秀で、頭のいい軍馬なのだから当然だ。それでももう一度だけ、と力一杯甘え、主を存分によろめかせた後、彼は渋々回頭する。長く美しい尾と鬣を揺らし、地面を掻いて。調教だけではない、絆で深く結ばれてこそ戦場で力を発揮する騎馬は、ここが危険でないと知っている。だからこそ、少し進んで振り返り、また進んでは振り返る。少しでも憐れに見えるように。

 これには流石に、



「あははっ」



 騎士も声を上げて笑った。

 澄んだ声に小鳥が飛び立ち、決して近くとは言えなかった場所で目を輝かせていた少女が顔を上げる。つられて母親も。



「あ……」



 騎士は気まずさに、思わず視線を彷徨わせた。目立つつもりはなかったのに、と独りごちて、曖昧に口端を緩める。

 少女は一瞬きょとん、とした表情を浮かべはしたものの、直ぐに破顔し、大きな口を開ける。



「お馬さんっ!」



 今では珍しい栗色の瞳が、太陽に淡く輝いて見えた。



「ね、お馬さんよっ!」



 そう言って彼女は母親に笑顔を向ける。はしゃいで腰を上げた彼女に、母親は自然な仕草で絵本を閉じ、手を伸ばす。そうして柔らかな髪を撫で、その愛らしい小さな額に唇を落とす。愛情の祝福を受けた少女は嬉しそうに笑って、また楽しそうにお馬さん、お馬さん、と輝く栗色に母を写した。



「……」



 胸が酷く痛い。

 騎士はなぜだか痛んだ目頭に自嘲して、幸せを体現する親子から目を逸らす。そうして遠ざかる馬の背を静かに見送って、今は手の届かない、脳裏に過った懐かしい光景に蓋をする。

  聞こえるのはあの独特の騒がしさではなく、賑わう露店が醸し出す熱気と活気に満ちた声。燻る煙は香しく、決して苦くも臭くもないのだから。空には小鳥が飛んで、柔らかな青空に溶けては、長く高く、その囀りを残す。それはあの頃と何ら変わらず同じだけれど。

 感傷に浸る時間はもう必要ない。



「……」



 騎士は大きく息を吐いて、緩めた首元を再び確りと整える。そして落ちた心を無視して足を進めた。感傷ばかりもたらす親子の前をさっさと過ぎ、美しい翼を持つモノを模った噴水の水飛沫を浴びる。汗ばむ身体にそれはとても気持ちがいいが、そんなことも言っていられない。擦れ違うモノ達の視線が痛い位に刺さるから。

 腰に剣はなくともその姿は立派な軍人。院の勢力圏と言うこともあって、どうしても周りからは浮いて見える。敵意もないのだし、協定も結ばれて久しいのだから、歩く権利くらいはあるはずだ。勿論こそこそ周りを伺ったり、隠れる気なども更々ないが、それでも居心地がいいか、と問われれば顔をしかめざるを得ない。

 騎士は少し歩みを速め、木々の間を縫って、大きな通りへと出た。そこを行き交うモノ、獣。舞い上がる砂埃に、獣臭さが混じって鼻を突く。

 何時になっても嗅ぎ慣れない。



「ごほっ」



 騎士は小さく咳き込んで、彼らの間を縫い、大きな建物に辿り着いた。

 そこは何百年も昔に建てられた、美しい聖堂。聖帝を祀る神聖な場所。来るモノ拒まず、の姿勢を表した、開放されたまま在り続ける大きな扉から、騎士は堂々と中へ入る。

 途端に霞む視界。鼻を突くニオイ。

 室内は焚かれた香で満たされていた。

 騎士は眩んだ頭を何度か振って、瞬き、顔を上げる。そしてやはり圧倒される。

 そこは正に大聖堂。視界を遮る柱は一本もなく、一直線に祭壇が目に入り、その背後で美しい細工で彫られた翼を持つモノ達が出迎える。壁に開けられた窓を囲む様に舞い踊る彼女達は、まるで光を包み、運ぶ使者。壁面には彼女達と戯れる小鳥達が鮮やかに描かれ、室内を華やかに飾る。高い天井を支える巨大な柱には外観同様、細やかなレリーフが施されていた。吹き抜けの湾曲した天井には、広大な空を摸した彫刻。それらが表すのは聖都の繁栄か、院の栄華か。

 何度見ても美しく豪奢で、言い知れぬ物を感じるのは立派に感情があるせいだろうか。

 騎士はそっと溜息を零す。

 そんな様子を出入りするモノ達は物珍しそうに、繁々と見つめては首を傾げていた。

 迷惑を掛けてはいけない、と歩き出せば、革靴が床を叩いて固い音を出す。

 異分子が余程物珍しいのか、それとも恐ろしいのか。騎士の周りは波が引く様に、音を立てて人々が身を引いて行く。少し困惑していると、



「またいらして下さると思っていました」



 明るい声が掛けられた。

 声の主は駆け寄って来て、嬉しそうに顔を綻ばせる。



「お席、お取りしておきました」



 荘厳な雰囲気を醸し出す教会内。彼はその中にあって、いつも場に似合わない柔らかい物言いをする。



「こちらですよね?」



 この大陸には珍しい銀の髪を揺らしながら、彼は小首を傾げる。細身の信徒が指すそこは、いつも騎士が座る場所。扉から近く、出入りが激しい。その為か、そこには教会を訪れるモノ達も滅多に座らなかった。騎士はそこが酷く気に入っている。

 見れば、古く艶のある木椅子には、騎士の代わりに分厚い聖書が一冊鎮座している。



「ズルしちゃいました」



 背表紙の文字も擦れたそれを手に取りながら、彼はなつっこさすら感じさせる仕草ではにかんだ。

 騎士は軽く会釈して、長椅子に腰を下ろす。



「お話、お好きなのですか?」



 決して愛想がいい訳ではない騎士の何が気に入ったのか。銀髪の信徒は傍らに立ち、重そうな聖書を胸に抱きしめる。その姿はどこか儚げで頼りなく、騎士にはそれがよく知る彼の姿を思わせて、全く似てもいないのに、と自嘲を誘った。



「今日は旧帝のお話だそうですよ」



 騎士の心中など知る由もない信徒は微笑む。

 柔らかそうな法衣から覗く肌は抜ける様に白く、天窓から零れる光に照らされて騎士には酷く眩しく感じられた。反射的に目を眇めたのも仕方のない事。

 しかし信徒はそれを困惑と捉えたのか、慌てた様子で口を開く。



「す、すみませんっ」



 恥じらう様に深く頭を下げ、



「ぼ、僕。騎士様が教会へいらして下さる事が嬉しくて……。お邪魔してしまいました」



 彼は上げた顔を真っ赤にして、大きな目を潤ませる。



「ほ、ホント、すみませんっ!」



 分厚い聖書を持ち上げ、顔を覆い隠しながら、彼はもう一度、深々と謝った。

 その仕草に、騎士は思わず笑う。



「あ、あの……」



 戸惑う様に覗かせた彼の、真っ青な瞳が美しかった。それはまるであの時の空のようで。



「あ……」



 騎士は口を開きかけ、噤む。細身の信徒の後ろ。木造りの椅子の間を縫う様に、こちらに近づいて来る男に気づいたから。その三白眼が騎士を射抜く様に睨んでいる。肩を怒らせながら、己の心中を隠す様子もなく、彼は騎士達に歩み寄る。

 痩身の信徒は気づかない様子で、美しい顔を不安に染め、小首を傾げていた。騎士は怒り顔の男から目を外し、彼に困った様に笑いかける。



「あの……」

「何をやっている、イーゼル」

「ひっ」



 吐き出す言葉を遮られ、呼ばれた青年は飛び上がる。慌てて後ろを振り返ったそれはどこか猫を思わせたが、愛らしさより怯えが強く見える。



「あ、ぅ……タビト様……」



  銀髪の信徒は笑みの形で開きかけた口を開閉させ、喉を引きつらせた。それが気に触ったらしい大柄の信徒は、



「準備は済んでいないぞ」



 騎手に当て付ける様に唸ると、有無を言わせず、怯むイーゼルの腕を掴んで引き摺った。その唇が、軍に関わるな、そう動いたのを騎士は見逃さない。

 イーゼルは悲しそうな、複雑な表情で己を引き摺る男を見る。そうしてもう一度騎士を見て、諦めた様にタビトに従って歩いた。

 丸めた背を見送りながら、



「気にしないで、イーゼル」



 騎士は今日、初めて知った彼の名を呟いた。

 院と軍が和解したのは表面上。そんなことは誰もが知っている事実。どれ程時が流れても、誰かが誰かを憎む。聖帝の膝元であるこの聖都にあっても、それは変わらない。



 ―――真の和平などあり得ない。



 些かうんざりしながら、騎士は静かに大きく息を吐く。そうしてもう一度、声なく彼の名前を口内で転がし、何かをごまかす様に木造の椅子に凭れた。

 遠くに聞こえるのは鐘の音。扉から流れ込むのは雑踏を行きかう人々の息遣い。それらを掻き消す様に獣の嘶きが被り、地面を抉る蹄の音が嫌に鼓膜を引っ掻く。

  苛立ちを助長するのは、言い知れぬ焦燥感か。

 騎士の開いた目には、高い天井が映っている。ただそれはもっと遠く。ここではないどこか遠い大地の、暗い空を見る。



 ―――あの頃に戻れば全て解決するだろうか……。



 騎士はただぼんやり思った。背中に、もう感じることのできない温もりと、穏やかな鼓動を思い出して、寂しく思う。



「あなたに会いたい」



 声にならない囁きは雑音に溶けて、消えた。

 騎士は静かに目を閉じる。

 浮かぶのは温かな思い出ばかり。母に優しく抱かれるあの少女の様に。あの優しく美しい信徒の様に。あの時、確かに、毎日笑っていた。



 ―――そんな気がするだけ、だろうか。



 騎士は自嘲して、目を開く。

 消えた雑音が静寂を呼ぶ。蝋燭の柔らかな光が彼の様に儚く揺れる。

 衣擦れと、段を上がる靴の音。

 騎士は誘われるまま、祭壇を見る。壇上には先程までなかった背の高い帽子を被った大司教と、司祭の姿があった。大司教は若い司祭に助けられながら、おぼつかない足取りで置かれた椅子に腰を下ろすところだった。

 その場に集まったモノ達は口を閉じ、静かに聖域を見つめる。

 司祭の一人が古めかしい本を抱え、壇上の老人へ手渡す。大司教はそれを恭しく開くと、ゆっくりと口を開いた。



「これは遥か昔、ここより遠い国で起こった物語。誰もが知る最悪の大戦を引き起こした、哀れな獣の物語」



 その語り口調に、集うモノ達が静かに息を飲む気配を感じた。



「これは語られてはいけない物語。初めて明かされる、歴史の一遍」



 騎士は静かに、老人に続く様に口を開ける。



「最初は皆同じ」



 誰にも届かないその音は、大司教の声に重なる。



『彼が彼と成ったのは……』



 騎士の瞳に蝋燭の炎が映る。それは淡く、濡れる様に輝いていた。


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