下
蝋燭に灯された火のように、私はぼんやりと意識を取り戻した。
ゆっくりと瞼を開き、薄っすらと開いた眼で状況を確かめる。
私は滝壺の辺りで仰向けの状態で寝そべっていた。
いつの間にか視界に映る空も夕闇の気配が迫っている。どうやらかなりの時間気を失ってしまっていたらしい。
意識もまだ朦朧としていて体も動かせそうにない。けれど、体の主導権は私のもとに戻っているのが理解できた。
私は一先ず安堵し、そして回顧する。
直前の記憶は曖昧ではあるが、滝の上から落下した際、体の自由が利いているのに気付いた私は咄嗟に背中側が下になるよう体を捻り、背負っていたバックパックから着水させた。それが功を奏したのか、即死は免れたようだ。
それでも落下の衝撃は相当なものだったようで、私はおそらく脳震盪で気を失い、バックパックは破損して中に入れてあった物が周囲に散乱しているのを横目で確認できた。
今になってその時の恐怖が蘇る反面、私は漸くある実感が湧く。
「……い、生き……てる……」
私はこの上ない喜びを噛み締めた。
さて、これからどうしようか。
意識もはっきりしてきたところでそういった事を考える余力が出てきた。
とりあえず体を動かせるようになるまで、もう暫くこのままの状態で回復を待つしかないのだが、できれば日没までには下山したいところ。
私は回復を待つ間、下山してから待ち望んでいるあれやこれやを考える。
これは椛島の受け売りで信憑性に欠けるのだが、今の私の状態の時などは特に、ポジティブな考えでいるだけで心身の機能回復に効果的なのだとか。
単純なのかもしれないが、意外にもこれがハマっている気がして不思議と気分が高揚する。
これならば本当にワンチャン日没までに下山できるかもと期待が膨らむ。
……ダガ、ソウハイカナイ
突然、背筋に悪寒が走ったと思いきや、全身が凍りついたように動かなくなる。
まさか、またあの時と同じ状態になったのかと困惑する。しかし、今度は自分の意志で体を動かそうとできる。つまり、これは金縛りの状態だ。
私はこんな事が立て続けに起こる不自然さに現状を疑う。
このままでは再びこの身に危害を加えられ兼ねない。だが、打開策が見つからない今、焦りが不安を増幅させる。
戸惑いを隠せない私は、ここである異変に気付く。
奇妙な事に、周囲の音が完全に聞こえないのだ。
あの立派な滝から聞こえる轟音も、鳥の囀りや木々のざわめきでさえも。
唯一聞こえるのは、己の荒い息使いと鼓動だけ。
更に奇妙なのは、ピンと張り詰めた空気の中に感じる誰かの気配だ。それも複数。
私は徒ならぬ重圧に晒され、額からは冷や汗が流れる。
その時だった。
気が動転してしまいそうな私の耳元で何者かが呟く……。
『……憎い…………憎たらしい』
その声は悲哀、嫉妬、恨みといった負の感情を孕んだ、驚くほど冷たい声だった。
一体どこの誰だか知らないが、私はそのように思われる覚えが無い。
どうしてその矛先が私に向けられているのか、濡れ衣を着せられている気がしてならない。
『……口惜しい……腹立たしい』
その声は一方的で身勝手極まりない悪念を私に浴びせてくる。
『お前が………………お前が………………許せない……許せない許せないっ!!』
その口調が明らかに攻撃的なものに変わった途端、それは突然現れた。
なんと、目の前に黒い靄のようなものが現れ、みるみるうちに人のような形となって私の上に馬乗りの状態になった。そして、そのまま私の首に腕らしきものを伸ばすと、もの凄い力で締め付けてきた!
「……ぐぅ、うぅぅっ!!」
気道を塞がれた私は呼吸ができずに苦悶する。
生命の危機に瀕した私の脳裏は、自分の意識があとどれくらい持つのかという焦燥感に襲われていた。
見えないタイムリミットが迫る中、私は金縛りを解こうと力一杯抗ってみせたが、てんで解けそうな感触が得られない。寧ろ、抗えば抗うほど圧倒的な殺意で返されてしまう。
「…………あ……ぅ……ぐっ…………っ」
成す術無く無抵抗な私に対し、黒靄の人影は尚も情け容赦の無い仕打ちを続け、私の抵抗する意思は苦しさに負けて段々と失われていく……。
……嫌だ! 死ねない! まだ、死にたくない!!
私は心の中でそう強く叫んだ!
まだ生きる事を諦めたくない! 後悔もしたくない!
私は自らを奮い立たせ、最後の力を振り絞り負けじと気迫で訴え掛ける。すると、黒靄から返ってきたのは全身の細胞が戦慄するほどの悍ましいものだった。
『殺してやる………………殺してやる…………殺してやる……殺してやる……殺してやる 殺してやる 殺してやる 殺してやる 殺してやる 殺してやる 殺してやる 殺してやる 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!! 殺してやる!! 殺してやる!! 殺してやる!! 殺してやる!! 殺してやる!!!』
黒い靄が発する怨念の籠った強い殺意に気圧され、私は遂に心が砕けた。
途端、私は気力を失う。
結局私は今日ここで命運尽きる運命だったのかも知れない。
そう思った私はやんわり素直に死を受け入れる。
それから程なくして、息苦しさのピークを越えた私は、残りの命が風前の灯火なのだと悟り、ゆっくりと目を閉じた……。
《ピリリリリリリリリリ……》
薄れゆく意識の中、どこからともなく聞こえるスマホの着信音。それを耳にしたのを最後に、私は気を失ってしまった……。
◇
私はぼんやりと意識を取り戻した。
薄っすらと瞼を開くと、見慣れない天井が見える。
「……い、生き……てる……」
ふと、ついさっき似たような事があったような気がすると思った矢先、私の視界の端から見慣れた人物がひょっこりと顔を出した。
「おっ、目ぇ覚ましよった」
「か……椛島……さ、ん?」
状況は全く飲み込めていないが、どうやら知り合いに心配を掛けていたようで、負い目を感じた私は相応の姿勢をと思い体を起こそうとした。
「ああ、ええってええってそのままで! 寝とき寝とき!」
見兼ねた椛島は慌てて私を静止する。
私も自分の体が思ったよりも動かせなかった事に気付いた。
「芹澤君な、丸2日も寝てたんやで」
「2日も……そう、ですか……」
もしかすると、椛島には随分迷惑を掛けてしまっているかも知れない。そう思い私は謝罪と感謝を述べた。
椛島は気前の良い返事をする。私に気を使ってくれたのだろう。そのおかげで私は穏やかな気持ちでいられた。
私は少し周囲に目線を配る。
どうやら私は今、病床にいるようだ。
どういう訳かここに運び込まれ一命を取り留めたようだが、にしてもここに椛島がいる事にどうしても違和感が生じてならない。
「椛島……さん……なん、で………ここに?」
「なんでここにって……」
椛島は難しい顔した後、一瞬ハッと何か思い出したかのような顔をする。
「話せば長いからその話は後や。それよか先生呼ぶから、ちょっとごめんやで」
そう言って椛島は私の枕元にあるナースコールを鳴らした。
『どうなさいました』
「すんませーん! 503号室の芹澤さんが目ぇ覚ましましたんで一度先生診てもらえますー?」
椛島は私の代わりに枕元のスピーカー越しに看護師と話をしてくれた。
それから私は椛島がなぜこんな場所にいるのかという疑問を抱いたまま、担当医のもと診察や検査やらを一通り受けて回った。
椛島はその間も私に付き添ってくれた。
どこまでも面倒見が良いのは相変わらずだった。
聞けば私が目を覚ますまでの間、事情を知らない会社からの電話や、直電をしてきたクライアントからの電話も私に代わって事情を説明して対応してくれたらしい。本当に感謝に尽きる。
幸い全身打撲による外傷や痛みはあるものの症状は軽く、衰弱しきっていた体調も回復傾向にあり、他に異常も見られない事から大事に至らなかった。
あとは体が正常に戻るまでの間入院する事になった。
ひと段落して、私の容体も日常会話ができるくらいまで落ち着きを取り戻した。
「椛島さん、色々と御迷惑を掛けて申し訳なかったです。改めてお礼を言わせて下さい。本当にありがとうございました!」
「なんや芹澤君そんな改まってぇ。気にせんとてーや」
「いえいえ、感謝してもしきれません。この御恩は一生かけて返させてもらいます」
「一生て芹澤君、プロポーズやないねんから〜。大袈裟やで大袈裟! 僕は君が無事やっただけで満足してるんやから。…………あっ、でも今思えば大袈裟なんは僕もやったかも知れんなぁ」
「どうしてです?」
「いやな、芹澤君きっちりしてるから連絡したらすぐ返してくれるけど、あん時は幾ら電話しても応答無いし、メッセージ送ってもいつまで経っても既読付かへんから、芹澤君に何かあったんや思たら居ても立っても居られへんようになって、それで急遽現地向かったんや。アタックしたんは翌朝やったけどな。ほんであの滝に着いたら芹澤君が倒れてたから慌てて救助の要請したんや。早とちりやと思っとったけど結果オーライで良かったわ」
椛島が駆けつけて来てくれた理由を聞いて、私は重ね重ね椛島に感謝を述べた。
「……けど、僕がここまで必死になった理由はそれだけやないねん」
椛島はいきなり何やら難しい顔をし出した。そして、ポケットから徐にスマホを取り出し、私に画面を見せてきた。
「これや。芹澤君が僕に送ってくれたこの写真……」
私が椛島に送った写真といえば、滝をバックに撮った私と老婆のツーショット写真…………の筈だった。
それを見た瞬間、私は絶句した。
写真にはオーブと呼ばれる白く半透明の小さな発光体が画面いっぱいに飛び交う様子が写っていた。だがそれだけではない。私を更なる恐怖に陥れたのは、老婆が写っているはずのところに、例の黒靄の人影が写っていたのである。
私は恐怖の余り放心状態となってしまった。
私はこれまで心霊やオカルトといったものを全く信じていなかった。そして、あの時もずっと否定し続けて考えないようにしていた。
けれど、こんな形で見せられたからには流石にそういった現象を認めざるを得なかった。
「なあ、芹澤君。あの時一体何があったんか詳しく聞かせてくれるやろか」
椛島は真剣な目で私を見ていた。
私は小刻みに震える手をギュッと握り、重い口を開く。そして、私が体験したあの不可解な出来事を洗い浚い椛島に説明した……。
◇
「……なるほど。そないな事があったんか。思い出したくない事を思い出させてしもて悪かったな。けど、納得いったで」
「納得ですか?」
「そうや。芹澤君が寝とる間の世話してた看護師さんがおってんやけど、その看護師さんあの滝近くの集落出身の方でな、滝に纏わる事を色々教えてくれたんや」
「それって、どういう……」
「聞きたいか?」
「ええ。お願いします」
すると椛島は一呼吸置いてから口を切り出した。
椛島が看護師さんから聞いた話曰く、あの滝は一年を通して安定した水量を誇る立派な滝なのにも拘らず、大々的に観光名所にしないのは地元住民らの意向なのだとか。
というのも、あの滝は古くから自殺の名所として有名で、これまで様々な対策を講じるも無意味らしく今も尚、身投げをする人が後を絶たない。
そういった背景があるわけで、地元住民らはそれが世間に知れる事への周辺地域の風評被害だとか、心霊スポット化して迷惑行為をする余所者らを懸念するといった声が多く上がったので直隠しにしているらしい。
因みにあの滝には元々、別の謂れがあったのだという。
この地域の人は方言で人の頭部を"かぶと"と呼ぶのだが、あの滝は身投げすると滝壺の大岩に頭部を激しく打ち付けられて、ほとんどの遺体は頭がかち割れた状態になる事から昔の人は【頭割りの滝】と呼んでいたのだ。
けれど、時代とともに文字を変え、謂れを変え今日に至ったのだそう。
「……ちゅう事やから、多分芹澤君はあの滝で悪霊に取り憑かれてたんとちゃうかな」
確かに椛島の言う通り、私の身に降り掛かった不可解な体調の変化や現象はあの滝に着いてからだ。
私は取り憑かれた人間というのがあのような祟りを被るのだと身を以て思い知らされたのだ。
「そんで黒靄の人影の正体、それは十中八九老婆やと思うわ。そいつが芹澤君に取り憑いて殺そうとしたんや!」
椛島は語気を強めて言う。私を思っての事だろう。本当に良い人だ。
「では、私はなぜそのまま殺されなかったんでしょうか?」
「さぁ、知らんわ…………けど、もしかしたら僕が鳴らしたスマホの音に反応して諦めた、とか?」
私と椛島はそこから暫し言葉が見つからなかった。
そういえば、と私は老婆が別れ際に言った言葉を思い出した。確かあの時、老婆はこう言っていた。
『それじゃあ、私も……行こう……かの』
あれはこの場から立ち去ろうという意味ではなく、私と一緒に着いて行こうという意味だったのかも知れない。
だとしたら振り返って姿が見えなかったのは、あの時既に私の体に取り憑いていたからだろう。
不意に私はあの時の恐怖体験が甦り、未だに取り憑いているのではないかと思い気が気でなかった。そのうち恐ろしくて恐ろしくて堪らなくなり、発狂してしまうのではないかと思うほど私の心には恐怖が深く刻み込まれてしまっている……。
「ま、兎に角や芹澤君。一回お祓いやらなんやら行って、また悪霊に悪さされんようにせなあかんかもな。必要やったら僕もついて行くから声掛けてや」
「ええ……」
私は椛島の折角の心遣いを無碍にしてしまうほど気持ちに余裕が無かった。
「あ〜〜……せやなぁ。うん! 僕的にはこういうのは気持ちで負けたらあかんと思うねん。いつも言うてるやろ? ポジティブにいかなポジティブに! 気持ち切り替えて元気出してこ! なっ? あっ、そや! 今から僕ここの女の看護師さん声掛けてくるわ! そんで芹澤君が元気なって退院したら、その看護師さんと一緒にお祓いデート行こか!」
「ふはは……なんですかそれ」
私は思わず笑ってしまった。
「そうそうそれっ! その感じや芹澤君!」
椛島には私の心は見透かされてしまっているのだろう。だけど、椛島の言葉は私にとって凄く励みになった。
「ふふ……ありがとうございます。椛島さん」
「ええねんええねん!……ほんなら、芹澤君の笑顔が見れたところで、看護師さん偵察しがてらちょっくら飲みもん買うてくるわ」
「分かりました」
私は病室をあとにする椛島の頼もしい後ろ姿を見送る。すると、椛島の足が急に止まった。
「あっ、そや! 芹澤君、君に一つ言うとかなあかん事があったんや」
「なんでしょう?」
背中越しに話していた椛島は、ゆっくりと振り返った。
「実は僕な……」
「はい」
「数年前にあの滝から自分のお婆ちゃん突き落としてん」
――完
※ この作品はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。




