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『知らない人』 第二話(後編)

――何してるの。


背後から声がした。


紬の指先から死亡診断書が滑り落ちる。


振り返る。


そこに立っていたのは湊だった。


違う。


湊の顔をした誰か。


紬「……岳」


男は少し目を見開いた。


それから笑った。


岳「へぇ…、覚えてたんだ」


紬は何も言えない。

覚えていたわけじゃない。

死亡診断書を見たからだ。


死んだのが湊なら。

残っているのは岳しかいない。


岳はその沈黙だけで理解したらしい。


岳「そうだよなぁ、覚えてるわけないか」


その笑顔はどこか寂しそうだった。



紬「湊はどこ」

岳「死んだよ」


紬「嘘っ…」

岳「本当」

紬「嘘でしょ」


岳は少しだけ首を傾げた。


岳「どうして?」

紬「だって……」


岳「兄さんだから?」


紬は答えられなかった。


岳は窓の外を見た。雨が降っている。


岳「事故だった、山道で車が落ちた」

紬「……」


岳「警察も事故って言ってる」

紬「本当に事故だったの?」


岳は黙った。


長い沈黙。


そして。


岳「さあ」


紬の背筋が冷える。


岳は笑った。


岳「どうだろうな」



紬「あなたがやったの?」

岳「証拠ある?」


その言葉に息が詰まる。


岳「ないだろ、だって事故なんだからさ」


岳は机のノートを撫でる。


岳「俺は兄さんを助けなかっただけかもしれない、


それとも…


本当に事故だったかもしれない」


岳「ねぇ、どっちだと思う?」


紬は何も言えない。


岳「まあいいや、もう終わったことだから」


その言葉が何より怖かった。


岳「俺、兄さんになりたかったんだ」


机の上のノート。


紬の好きな花。


好きな映画。


好きな食べ物。


口癖。


笑い方。


全部書いてある。


岳「ずっと見てた、兄さんと紬を」


紬はページをめくる。


そこには。


『12月24日』

『紬は兄さんを見る時だけ笑い方が違う』


『2月14日』

『兄さんは気づいてない』


『俺だけ知ってる』


『4月8日』

『今日も兄さんだった』


ページが滲む。


『今日も俺じゃなかった』


紬の手が止まる。


岳「面白いよな」


岳が笑う。


岳「紬のことは何でも知ってるのに、紬は俺のこと何も知らない」


紬は顔を上げる。


岳「好きな食べ物知ってる?」


答えられない。


岳「知らないよな」


岳「初デートで兄さんが何食べたかは覚えてるくせに」


岳「俺の好きなものは知らない」


胸が痛い。


岳「名前だって」


岳が笑う。


岳「忘れてたし」


紬は何も言えなかった。


その日。


紬は警察へ向かった。全部話した。


湊は死んでいること。


岳が成り代わっていること。


事故のこと。


ノートのこと。


警察は困った顔をした。


警察「証拠はありますか」


証拠。


ない。


警察「事故死ですよね」


ない。


警察「ご家族は?」


母親は言った。

母親「湊ですよ」


父親も言った。

父親「何を言ってるんだ」


友人も。

友人「大丈夫か?」


誰も信じなかった。


誰も。


岳は完璧だった。


数週間後。

紬は大学の帰り道を歩いていた。


後ろから声がする。


岳「紬」


振り返る。


そこには湊の顔。


誰も違和感を持たない。


誰も。


岳だけが知っている。


岳「警察行った?」


紬が凍りつく。


岳「だと思った」


笑う。


岳「でも無理だよ」


岳「証拠ないから」


紬「……」


岳「誰も信じない」


その通りだった。


岳「ねえ」


一歩近づく。


岳「兄さんはもういない」


紬は震える。


岳「でも」


岳「お前が愛してたのは誰?」


紬「違う……」


岳「違わない」


岳「手を繋いだのは?」


岳「キスしたのは?」


岳「将来の話をしたのは?」


岳「隣にいたのは?」


紬は言葉を失う。


だって。


そのほとんどは。


岳だった。


岳「兄さんじゃない」


岳「俺だ」


紬「やめて……」


岳「やめない」


岳の目が揺れる。


怒りでもない。


憎しみでもない。


もっと長くて。


もっと深い感情。


岳「なあ」


小さな声。


岳「もし最初に俺だったら」


紬が顔を上げる。


岳「好きになった?」


答えられない。


岳は少しだけ笑った。


その笑顔は。


どこか泣いているように見えた。


岳「分かってる…、ならないよな」


そう言ったくせに。


次の瞬間。


岳は紬の耳元で囁いた。


岳「でも」



岳「気づかなかっただろ?」



紬の呼吸が止まる。



岳「誰も、気づかなかった」


岳は微笑む。


勝者のように。


それでいて。


ひどく空っぽな顔で。


岳「だから今も、俺は湊だ」


春の風が吹く。


誰も気づかない。


誰も知らない。


そして紬だけが知っている。


目の前にいるのは。


愛した人ではない。


けれど。


知らない人でもない。


――知らない人


✄-----完結----‐✄


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