『知らない人』 第二話(後編)
――何してるの。
背後から声がした。
紬の指先から死亡診断書が滑り落ちる。
振り返る。
そこに立っていたのは湊だった。
違う。
湊の顔をした誰か。
紬「……岳」
男は少し目を見開いた。
それから笑った。
岳「へぇ…、覚えてたんだ」
紬は何も言えない。
覚えていたわけじゃない。
死亡診断書を見たからだ。
死んだのが湊なら。
残っているのは岳しかいない。
岳はその沈黙だけで理解したらしい。
岳「そうだよなぁ、覚えてるわけないか」
その笑顔はどこか寂しそうだった。
*
紬「湊はどこ」
岳「死んだよ」
紬「嘘っ…」
岳「本当」
紬「嘘でしょ」
岳は少しだけ首を傾げた。
岳「どうして?」
紬「だって……」
岳「兄さんだから?」
紬は答えられなかった。
岳は窓の外を見た。雨が降っている。
岳「事故だった、山道で車が落ちた」
紬「……」
岳「警察も事故って言ってる」
紬「本当に事故だったの?」
岳は黙った。
長い沈黙。
そして。
岳「さあ」
紬の背筋が冷える。
岳は笑った。
岳「どうだろうな」
*
紬「あなたがやったの?」
岳「証拠ある?」
その言葉に息が詰まる。
岳「ないだろ、だって事故なんだからさ」
岳は机のノートを撫でる。
岳「俺は兄さんを助けなかっただけかもしれない、
それとも…
本当に事故だったかもしれない」
岳「ねぇ、どっちだと思う?」
紬は何も言えない。
岳「まあいいや、もう終わったことだから」
その言葉が何より怖かった。
岳「俺、兄さんになりたかったんだ」
机の上のノート。
紬の好きな花。
好きな映画。
好きな食べ物。
口癖。
笑い方。
全部書いてある。
岳「ずっと見てた、兄さんと紬を」
紬はページをめくる。
そこには。
『12月24日』
『紬は兄さんを見る時だけ笑い方が違う』
『2月14日』
『兄さんは気づいてない』
『俺だけ知ってる』
『4月8日』
『今日も兄さんだった』
ページが滲む。
『今日も俺じゃなかった』
紬の手が止まる。
岳「面白いよな」
岳が笑う。
岳「紬のことは何でも知ってるのに、紬は俺のこと何も知らない」
紬は顔を上げる。
岳「好きな食べ物知ってる?」
答えられない。
岳「知らないよな」
岳「初デートで兄さんが何食べたかは覚えてるくせに」
岳「俺の好きなものは知らない」
胸が痛い。
岳「名前だって」
岳が笑う。
岳「忘れてたし」
紬は何も言えなかった。
その日。
紬は警察へ向かった。全部話した。
湊は死んでいること。
岳が成り代わっていること。
事故のこと。
ノートのこと。
警察は困った顔をした。
警察「証拠はありますか」
証拠。
ない。
警察「事故死ですよね」
ない。
警察「ご家族は?」
母親は言った。
母親「湊ですよ」
父親も言った。
父親「何を言ってるんだ」
友人も。
友人「大丈夫か?」
誰も信じなかった。
誰も。
岳は完璧だった。
数週間後。
紬は大学の帰り道を歩いていた。
後ろから声がする。
岳「紬」
振り返る。
そこには湊の顔。
誰も違和感を持たない。
誰も。
岳だけが知っている。
岳「警察行った?」
紬が凍りつく。
岳「だと思った」
笑う。
岳「でも無理だよ」
岳「証拠ないから」
紬「……」
岳「誰も信じない」
その通りだった。
岳「ねえ」
一歩近づく。
岳「兄さんはもういない」
紬は震える。
岳「でも」
岳「お前が愛してたのは誰?」
紬「違う……」
岳「違わない」
岳「手を繋いだのは?」
岳「キスしたのは?」
岳「将来の話をしたのは?」
岳「隣にいたのは?」
紬は言葉を失う。
だって。
そのほとんどは。
岳だった。
岳「兄さんじゃない」
岳「俺だ」
紬「やめて……」
岳「やめない」
岳の目が揺れる。
怒りでもない。
憎しみでもない。
もっと長くて。
もっと深い感情。
岳「なあ」
小さな声。
岳「もし最初に俺だったら」
紬が顔を上げる。
岳「好きになった?」
答えられない。
岳は少しだけ笑った。
その笑顔は。
どこか泣いているように見えた。
岳「分かってる…、ならないよな」
そう言ったくせに。
次の瞬間。
岳は紬の耳元で囁いた。
岳「でも」
*
岳「気づかなかっただろ?」
*
紬の呼吸が止まる。
*
岳「誰も、気づかなかった」
岳は微笑む。
勝者のように。
それでいて。
ひどく空っぽな顔で。
岳「だから今も、俺は湊だ」
春の風が吹く。
誰も気づかない。
誰も知らない。
そして紬だけが知っている。
目の前にいるのは。
愛した人ではない。
けれど。
知らない人でもない。
――知らない人
✄-----完結----‐✄




