第五話 無能の証明
ネロは机に向かっていた。
開かれたのは、古びた一冊の本。
基礎魔術理論。
ネロ「……」
文字が、頭に入ってこない。
いや――
“理解できない”。
ネロ「……なんだ、これ……」
書かれているのは、決して難しい内容ではない。
本来なら、子供の頃に終えているはずの基礎。
だがネロには、それがまるで異国の言葉のように見えた。
ネロはページをめくる。
だが、意味は繋がらない。
点と点が、線にならない。
ネロ「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
ネロ「……そうか」
ネロ「俺、何もやってこなかったんだな」
思い出す。
勉強を避け、適当に流して遊び回っていた日々。
どうせ自分は当主になる、と。
どうせ周りが用意してくれる、と。
ネロ「……全部、俺のせいかよ」
手が震える。
本を閉じることすらできない。
その時――
「おやおや」
軽い声が、背後から響いた。
ネロ「……誰だ」
振り返る。
そこに立っていたのは――
エド「お久しぶりでございます、ネロ様」
ネロ「……エド?」
かつて屋敷に仕えていた使用人。
今はもう、この家にはいないはずの男。
エド「いやぁ、聞きましたよ」
エド「“中二病”でしたっけ?」
口元に浮かぶ、あからさまな笑み。
ネロ「……何しに来た」
エド「ご挨拶ですよ。元ご主人様の“転落”をね」
ネロ「……っ」
エドの背後から、数人の男が現れる。
どれも、粗暴な空気を纏っていた。
「こいつが例の?」
「貴族様がハズレスキルだってよ」
「終わってんな」
笑い声が上がる。
エドは肩をすくめた。
エド「いやぁ、安心しましたよ」
エド「あなたのような“何もしない人間”が上に立たなくて」
ネロ「……」
エド「昔から思ってたんです」
エド「なんでこんなのが当主候補なんだって」
言葉が、突き刺さる。
エド「で、今はどうです?」
机の上の本をちらりと見る。
エド「勉強、ですか?」
エド「今さら?」
男たちが笑う。
「遅すぎだろ」
「ガキ以下じゃねぇか」
エドは一歩、ネロに近づく。
エド「あなたはね、ネロ様」
エド「“スキルがハズレ”なんじゃない」
エド「“人間としてハズレ”なんですよ」
――その一言で、空気が凍る。
ネロの思考が、止まる。
エド「スキルがどうこうの前に」
エド「努力もしない、何もできない」
エド「そんなの、人以下でしょう?」
笑い声。
視線。
全部が、自分に向けられている。
ネロは――何も言えない。
⸻
笑い声が、遠ざかっていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
――静かだ。
ネロは動けなかった。
立ったまま、ただその場に縫い付けられたように。
ネロ「……」
言葉が出ない。
胸の奥が、重い。
息をするのも、苦しい。
やがて、力が抜けるように――
ネロはその場に崩れ落ちた。
膝が床にぶつかる。
鈍い音が響く。
ネロ「……は……」
うまく呼吸ができない。
頭の中で、何度も繰り返される。
“人間としてハズレ”
ネロ「……違う……」
かすれた声。
だが、その言葉に力はなかった。
ネロ「……違う、はずだろ……」
だが――
何も、否定できない。
勉強もできない。
努力もしてこなかった。
何一つ、胸を張れるものがない。
ネロ「……あぁ……」
視線が、机へと向く。
開かれたままの本。
基礎魔術理論。
ネロは、震える手でそれに触れる。
ページをめくる。
――やはり、分からない。
文字が、意味を持たない。
ただの記号の羅列にしか見えない。
ネロ「……なんだよ、これ……」
ネロ「……なんで……」
頭を抱える。
ネロ「……ふざけるなよ……」
震える声。
ネロ「……今さら、何やってんだよ……」
ネロ「……遅いに決まってんだろ……」
ネロ「……俺が、悪いんだろ……」
ネロ「……俺が、何もしてこなかったから……」
言葉にするたび、胸が締め付けられる。
ネロ「……だったら……」
そこで、言葉が止まる。
――だったら、どうする?
その先が、出てこない。
ネロ「……分からない……」
ぽつりと、零れる。
ネロ「……何も、分からない……」
手から、本が滑り落ちた。
床に落ちる音。
その音すら、遠く感じる。
ネロは、ただ俯いた。
何も考えられない。
何もできない。
何も――ない。
時間だけが、過ぎていく。
ネロは、その場から動くことができなかった




