09:アリシア・クロウの戸惑いと拒絶について
窓から月の光が差し込み、燭台の光と共に、二人の男女を照らした。
女は困惑の表情を浮かべ椅子に座り、男は真剣な顔で跪く。
「ミス・クロウ。どうか私と結婚して下さい」
ライアン・ソーンの求婚に、アリシアの困惑は頂点に達した。
何を言っているのだろう、この人は。その台詞をもし、自分に対して言うとすれば、それはもっと前にあるべきだった。
「ミスター・ソーン。酔っていらっしゃいますの? そんなご冗談を言って、私を困らせないで下さい」
「いいえ。私は素面ですし、真剣です。真剣にあなたに求婚しています」
「どういうお心変わりか知りませんが、お受けすることは出来ません」
「なぜですか?」
「なぜですって!?」
アリシアは憤慨しつつも、それでも声を低めたまま、ライアンに対峙した。
「なんておかしいことをおっしゃるのでしょう。なぜ、ですって?
それではまるで私があなたの求婚を受け入れて当然のようではないですか!」
アリシアの怒りに、ライアンは顔をゆがめた。
「あなたのお怒りは当然です。私はあなたに対し、不誠実でした」
「ええ、その通りですわ。あなたは私に期待させたのです。
期待した私も悪いのです。でもね、まだ若く、経験も浅い娘では、簡単に騙されてしまうのも事実です。だって、だって……あれほど優しく親しくされたら、そうなりますでしょう?
あなたは素敵な男性ですもの。
ミス・ドーソンもすっかりあなたにお熱ですわ。
そうね、そろそろ身を固める決心をなさったのならば、こんな家庭教師の娘にするよりも、ミス・ドーソンになさればいいのよ。
あの子は素直で可愛らしく、あなたの為に、怒ってもくれる。持参金もたくさんありますわ。
あなたも随分とお金持ちなのですもの。あなたを『死神』呼ばわりした人たちだって、ミス・ドーソンと結婚しても、よもや持参金目当てとは言いませんでしょう」
ライアンはアリシアの手に自分の手を重ね、力を込めた。表情はいよいよ苦しげで悲しげになったが、それではアリシアの心は動かない。
「あなたは家庭教師になられたのですね」
「はい。ご存知の通り、レインバード邸には住めなくなりましたし。結婚も出来ませんでしたから」
「それは……」
「決してミスター・ソーン、あなたのせいではありませんわ」
それだけは強調しておかなければならない。アリシアはぴしゃりと鞭を振うように言った。
男に、自分の影響で婚期を逃したなど、自惚れてもらっては困る。
「私の魅力がそこまでなかったと言うだけですわ。だから自分で生活できるようにしようと考えたのです。あなたの望むように、いつまでも変わらぬレインバード邸のアリシア・クロウのままではいられません」
「残念なことですが、今のあなたもとても魅力的だと思います」
「それはありがとうございます」
ライアンに優しく甘い声を掛けられるほどにアリシアの心は凍てついていく。おかげで再会するのを恐れていたとは思えないほど冷静に対応出来た。
「初めて会った時からとても純粋で優しく、愛らしい方だと心を掴まれました。
きっと他の男性もそう思ったことでしょう。だから私がいなくなっても、あなたはきっと幸せな結婚をなさると思いました」
「だから私の前から姿を消した……?
あんまりな言い分で、呆れてしまいます。
それならば道ならぬ恋に苦しんで、過ちを犯す前に逃げ出したと言われた方がまだ納得できます」
「道ならぬ恋?」
「キャロラインのことです」
はっと、息を呑んだライアンを見て、アリシアは自分の予想が正しかったと確信した。彼女はライアンに跪かれた時、思い出したのだ。あの時もライアンは跪いていた。自分でははなく、彼女の兄の嫁であるキャロライン・クロウに。あの美しく愛想の良い人妻に、ライアンは心ひそかに魅かれてしまったのではないかという疑惑を、彼女はずっと抱いていた。現にアリシアがキャロラインのことを悪く言った時、ライアンは彼女のことを庇うようなことを言ったではないか!
アリシアはてっきり、今度もライアンは逃げてしまうと思っていた。しかし、ライアンはアリシアの手を握る力を弱めなかった。より一層、まるですがるように力を込める。
「あなたは誤解している。あれは……そんなものではなかった。あれは……」
苦渋に満ちた声が、彼の苦悩を物語っていた。何に苦しんでいるかアリシアには分からなかったが、もう知りたいとも、ましてや支えたいとも思わない。
「言いたくないのならば結構です。私も聞きたいとは思いません。
お申し出はありがたいのですが、お受けすることは出来ません。
私、もうすぐ婚約しますの。あなたにどんな事情があるか存じませんが、それを聞いたとしても、結婚は出来ないのです」
「結婚を……あのエドワード・マーチンとですね」
「そ……そうですわ」
エドワードと一回しか会っていないが、ライアンは正確にアリシアとの関係を見抜いた。見抜いたからこそ、このような暴挙にいたったとも言えよう。
「あなたは私よりも、あの男を選ぶのですか?」
「選ぶ? そんな言い方なさらないで下さい。
むしろ私は選んでもらったのです。ミスター・マーチンに。
彼は私が困っているのを知って、求婚してくれたのです」
「つまり愛はないと?」
きらりとライアンの目が光った。親しいが、男女の情愛ではないと、ライアンがやはりその鋭い瞳は察知したのだ。
「愛はありませんが、尊敬はあります。今の私にはそれで十分です。
移ろいやすい愛よりも、確かな尊敬の方がずっと頼りになります。
ミスター・マーチンは明日の朝、私との結婚の許可を頂きに師の元へ向かいます。すぐに帰ってくるでしょう。そうしたら、私の婚約は成立して、結婚式とあいなりましょう」
一刻も早く母親に手紙を書かなければ。アリシアはなぜ、あの時、窓の外を見てしまったのか、深く後悔した。人影なんか無視をして、手紙を書き、ハートヒル邸の使用人にそれを出してくれるように頼むべきだった。
「ではまだ婚約はしていないのですね? ではまだ私にも可能性がありますね。
私はエドワード・マーチンと同じようにあなたに尊敬を捧げましょう。エドワード・マーチン以上に愛情を捧げましょう。それに財産も……ええ、ミス・クロウ。私には財産があります。あなたを幸せにするに十分すぎるほどのものです」
アリシアはいよいよ憤慨した。
「ミスター・ソーンは私を試そうとしていますの?」
「試す? そんなつもりはありません」
「私が財産目当てにミスター・マーチンとの約束を捨て、あなたを選ぶと本気で思って?
そうね、確かにあなたの財産はとても魅力的でしょう。
でも、私はミスター・マーチンと約束したのです。もしかしたら、彼との結婚生活はいずれ不幸になるかもしれない。けれども、ここであなたの申し出を受けたら、私は即刻、不幸になるでしょう。
約束を破った自分を責めて生きていくなんて、私には出来ません。
さぁ、手を離してください。こんな所、誰かに見られでもしたら困りますわ。
求婚するほど愛して下さっているのならば、私の名誉を守って下さいますね」
アリシアの言葉に、ライアンは条件を出してきた。
「分かりました。しかし、私の話を聞いては下さいませんか?
あなたに恋した私に免じて、どうか最後まで聞いて欲しいのです」
「……分かりました」
その返事を受けて、ライアンはアリシアの手を離し、近くのソファーに腰かけた。しかし、すぐに話し始める気配はない。手を祈るように組み、深く考え事をしているようだ。その黒い服装は暗い闇夜に溶け、アリシアはまるで一人にされたような不安に襲われる。
同時に、この人はこれから何を告白するのか、それを聞いて自分が彼に絆されないかという不安にも苛まれていた。
アリシアは今でこそ克服したものの異母兄・ヨアンと似て考え無しだった。だが、ヨアンとは違い、元来、情の深さを持っており、それは今もそうであった。それは美徳ではあったが、今の現状では不利に働く恐れがあるのだ。
「あなたは言いましたね。『まだ若く、経験も浅い娘では、簡単に騙されてしまう』と」
ようやく声が聞こえ、アリシアは心を引き締める。
「はい。言いました」
「それは決して若い娘だけのものではありません。若い男もそうなのです。
私も若い頃……あれはまだ十八歳の時でした。まだソーン家の財産を継ぐことも、ましてその見込みもなく、貧しくはないものの裕福でもないローズウッド邸のライアン・ソーンだった頃の話です。
私は友人の家で、家庭教師として働いている女性と出会いました」
そこでライアンは一旦、区切って、アリシアの方を見た。ハートヒル邸の家庭教師は息を呑んだ。
「年上で美しい女性でした。
私は彼女にすっかり夢中になってしまったのです。若い男は早急に結婚を求め、彼女に何度となく愛の言葉を囁き、懇願し、縋り付きました。
私の気持ちは受け入れられると思っていました。彼女の反応は決して悪いものではなかったのです。
冷静に考えれば、彼女は私に言質を与えはしなかった。巧みに交わし、約束をしてはくれなかった。けれども私が諦め、彼女から離れようと考えると、優しい微笑みと言葉で引き戻すのです」
それは以前、私に対して行った振る舞いとそっくりそのままね、とアリシアは内心、ライアンを詰った。
「その頃の私は彼女の愛を得られないことを、この世の終わりとばかりに嘆き悲しみました。
なんて愚かな男だろう」
ライアンはたまらず拳で自分の膝を打った。
「ある日、彼女から婚約したことを告げられました。
その相手が……ヨアン・クロウ。あなたの……お兄さん。レインバード邸の一人息子。
そう、あの人は私では物足りなかったのです。私の財産では満足出来なかったのです。私は所詮、彼女にとっては最後の手段にすぎなかった。
私以上に条件の良い男と知り合い、すぐさま婚約までこぎつけました」
「ああ……」と思わずアリシアの口から声が漏れた。想像していたこととはいえ、なんという事実なのだろう。ライアンがキャロラインを愛していたなんて。そして、無残に捨てられた。その理由も、アリシアには容易に想像出来た。
「分かりました。分かりました。
だからもう、これ以上はお話にならないで。あなたは愚かではありません。
あの人の、キャロラインの手腕はさぞや見事だったのでしょう。ヨアン兄さまもあっという間に、彼女の虜になってしまったのですもの。
人が確信を持って人を騙そうとする時、それを防ぐのは並大抵のことではありません。警戒心もなく、純粋に自分を慕ってくれる人間を、そんな風に扱うなんて、とても許されることではありません」
アリシアの憤りは、ライアンからキャロラインに向けられた。
「……ミス・クロウ、あなたは優しい人だ。
こと、男女の問題です。騙すも騙されるもないでしょう。私はただ、愛されなかっただけです。
彼女に財産以上の魅力を与えることが出来なかった。それだけです。ええ、それだけだと思い、若い日の苦い記憶として、教訓とすべきでした。
ですが、私には思いもかけない事態が舞い込みました」
「ソーン家の財産を手にしたのですね」
「そうです。そのソーン家の財産のことは彼女も知っていました。しきりにアークライト州のソーン家について私に聞いてきました。ですが、その当主が若く健康なこと、娘しかいないが、まだまだ息子が生まれる可能性があることを知って、失望していました。
その時に、気が付くべきでした。あの人の本性を……」
ライアンは立ち上がり、再びアリシアの側に寄ってきた。心が落ち着かないのだろう。アリシアは彼を押しやろうとは思わなかった。ピアノにもたれかかったライアンはつま先を見ながら、先を続ける。
「私がソーン家の財産を受け継ぎ、王都にも家を構えることになりました。すると、結婚した彼女が近づいてきました」
「まぁ!」
アリシアは思わず立ち上がりそうになった。いくらキャロラインでも人の妻となった身ですることではない。
「彼女はまだ、私に影響力が残っていると思っていたのです」
「そう……なのですか?」
「まさか! 私はそう……失恋した後、あの親切なソーンさんの招きに応じて、アークライト州のブルーム邸に滞在したのです。彼は私の話を親身になって聞いてくれ、彼女の性根の醜さを解いてくれていました。未練はたっぷりと残っていたのです。
そうでなかったら……そうですね……私はまた騙されたかもしれません。
ソーンさんのおかげで私は過ちを犯さないですみました。きっぱりと彼女の誘惑を断った。
彼女はそれが気に入らなかったのでしょう」
ライアンはアリシアの方を向き自虐的に微笑んだ。「私を『死神』と呼んだのは彼女なのですよ」
「ひどい……あんまりですわ」
「事実、そうかもしれません」
暗い大き影が、ライアンを包んだ。耐えきれずに、アリシアはついに立ち上がり、ライアンの手を取ってしまった。
「そうなのです。ミス・アリシア・クロウ。ソーンさんは私と馬に乗っている時に、落馬して亡くなったのです。馬は本来、私が乗るべき馬でした。朝、少し機嫌が悪かったので、ソーンさんが自分の馬と交代して下さったのです。本来ならば私が死ぬべきでした。彼は私の目の前で馬から落ちました。
そして私が彼の財産を相続したのですから、『死神』という表現はそれでもまだ、柔らかい表現かもしれません。彼の妻には『人殺し』と罵られましたから」
「……そんな風に思ってはいけませんわ」
「やはりあなたはお優しいのですね。私のために泣いて下さる」
知らずにアリシアの頬に涙が伝っていた。
「決して善良でなくても普通の感覚を持った人間ならば、当たり前のことです。
それをキャロラインは……なんて非道な行いでしょうか」
「おかげで、ある意味、私はそれで自分を罰し続けることが出来ました」
「あなたは何だかんだ言って、キャロラインに魅了されていますのね」
自分がキャロラインを批判すると、きまってライアンは擁護するような発言をするのだ。アリシアは面白くなくなって、ライアンの手も離してしまった。