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10:裏切りの瞬間

 アリシアがそっぽを向いたのを見て、ライアンは自身の言葉の持つ意味に気が付き、慌てた。


「誤解させてしまったらすみません。本当におかしなことですね。随分と嫌な思いをさせられたのに」


「それでもお好きなのですわ。やっぱり。

だから私を使って、彼女を嫉妬させたかったのですね」


 アリシアは初めて舞踏会でライアンに会った時のことをまざまざと思い出していた。彼はキャロラインを見ていた。そしてこれ見よがしに、自分を誘ったのだ。あれはキャロラインへのあてつけに他ならなかった。

 ライアンはアリシアの鋭い指摘に、暗く笑った。


「あなたは本当にお変わりになられたのですね。聡明で思慮深くなられた。

初めて会った時は、明るく素直なお嬢さんでした。

ええ、今でも思い出します。あなたは私の心を打ちました。

覚えていますか? あなたは私の財産に見向きもしなかった。ただ、新しい場所に移った私が、その土地に慣れたか、寂しい思いをしていないかを心から案じてくださいましたね。

彼女だけでなく、ソーン家の跡をついた私には、様々な女性が近づいてきました。女性不審になりかかっていた私にとって、あなたの存在は眩しいばかりでした。

薄汚い下心で近づいた私はとても恥ずかしく、あなたの前に立つ資格はないと思いました。

さらにそのせいで、彼女の手によって窮地に立たされていた。

申し訳ないことをしました。もう二度と、あなたには近づくまいと決心したのです」


「でも、私の前に現れましたね」


「……一度目は偶然だったのです。あなたに何かお礼とお詫びをしたくて、そこでせめて読みたがっていた本を、と思いまして。留守の間に届けようとしたのですが、思いもかけず、あなたがいまして」


「そうでしたわね……」


 あれは母親に手紙を書こうとしていた所だった。

 ああ、そうだ、手紙を……書かなくては。

 アリシアはぼんやりとそう思った。


「あの時もあなたは無邪気に私を慕ってくれましたね。私の心の中に、あなたがしっかりと住み着きました。彼女の存在が近くにいることは知っていました。それで悩みもしましたが、どうしてもあなたに会いたくなって、ミスター・ブレイクを頼り、レインバード邸に近づいたのです。

あの春の日々はとても楽しかった。あなたはどこまでも無垢で素直で愛らしく、私自身を一途に見てくれた」


 ライアンに改めて言われると、アリシアは昔の考え無しで向こう見ずな自分を思い出して羞恥に頬を染めた。ライアンは褒めているが、彼女にはそうは聞こえなかった。もう、素直には受け取れない自分がいた。それを惜しむ気持ちがない訳ではないが、冷静でいられることは良いことだと考え直す。そうでなくてもライアンの過去話に動揺し、涙まで流してしまった。


「私はあなたに告白しようと決心しました」


「嘘です」


「信じて下さい。本当なのです。

ですが彼女に感づかれてしまった」


「キャロラインが……」


「あの人は私が渡した手紙をすべて持っていた。私の……彼女への賛美と愛に溢れた手紙を全て。それをあなたに見せると」


「そんなもの。見せられても私、あなたへの気持ちは変わらなかった」


「本当にそうでしょうか?」


 問われたアリシアは考えた。本当にそうだろうか? 

 今ならば、おそらく不快になったとしても、笑い飛ばすくらいの余裕はあった。だが、昔のアリシア・クロウならどうだろう。 

 ライアン・ソーンがキャロラインに熱を上げ、情熱的な手紙を何通も何通も送ったのを知って、冷静でいられただろうか? 

 

「あなたは彼女が苦手でしたね。そんな彼女に対して、私が一時の気の迷いだとしても心を奪われていたことを知ってしまったら、私への見方が変わるのではないかと、それが恐ろしかった。あなたに見られたのは、手紙を返して欲しいと懇願していた時だったのです。彼女が私に跪くことを要求した」


「それはあなたの考えですか?」


「え?」


 アリシアは深く考え込む途中で、違う場所に辿り着いた。自分でも不思議な面持ちでライアンを見た。


「それはあなたの考え方ではない気がします。

それを言ったのはキャロラインではなくって? あなたはそれを自分の考えだと思ってしまったのではなくって?」


「あ……」


 アリシアの指摘に、今度はライアンが頬を染めた。


「ああ……私は愚かな男です。あの人の言う事を真に受けてしまった。

あなたではなく、彼女の言葉を信じてしまった」


 頭を抱えるライアンをアリシアは悲しくも優しい気持ちで見守った。


「仕方がありません。あなたにそう思わせる弱さが、確かにあの時の私にはありました。

私は無知で浅はかな小娘だったのです。きっとキャロラインが思った通りになったでしょう。

でも……たとえそうだったとしても……いいえ、やはりあの時、真実を知ってしまったら、あなたにひどい言葉を言ってしまったかもしれませんね。そして傷つけあってしまったことでしょう。

あなたが言うように、キャロラインの策は本人の思わぬところで、役に立つことがあるのですね」


 ふふっと、笑いが漏れたアリシアをライアンは何か、眩しいものを見るような目で見つめた。


「彼女はこうも言いました。アリシア・クロウは若くて可愛らしい娘だから、あなたが情をかけなくても、誰か適当な人間と縁づくだろう、と。それに関しては私も異論はありませんでした。

けれども再会したあなたはまだ未婚のままだった。彼女のせいでレインバード邸も追い出され、ご苦労を……」


「それで可哀想に思って求婚して下さったのですね」


「ああ、ミス・クロウ。同情と取らないで下さい。全ては愛情からのものです」


「もうあなたが愛してくれたレインバード邸のアリシア・クロウはいないのです。

どうか、あなたはあなたの幸せを見つけて下さい。必ずやいいが現れるでしょう。

これだけは信じて下さい。あなたはとても魅力的な人です。優しい人です。『死神』なんかではありません。幸せになれますよ」


「どうしても受けては下さらないのですね」


 もはや慈愛に近い微笑みを浮かべたアリシアは頷いた。

 ずっと知りたかったライアンの事情は分かった。キャロラインに振り回された同士として、友情や憐れみを感じるが、熱烈な気持ちは戻ってはこない。

 アリシアは三年の月日をかけて彼とこうして向き合えるまで成長した。易々とは心は動かなかった。


「さて、そろそろあなたのお話も終わりですね。

最後にお聞きしてもよろしいですか?」


「ええ……ミス・クロウ。勿論です」


「では、あの時、あなたは本気で私を誘惑しようとしていたのですね」


「はい。そうです。私はあなたを誘惑していました」


「良かった」


 アリシアはふっとかつての無邪気さの残る笑みを見せた。


「え?」


「私、あなたにすっかりのぼせ上っていましたのよ。私一人の思い込みだったら、とても恥ずかしいとずっと思っていました。

でもあなたのような立派な方が誘惑したのなら、ええ、それはすっかりその気になっても仕方が無かったと諦められます」


 瞬間、ライアンはアリシアに跪き、その手を取った。


「どうかミス・クロウ、私と結婚して下さい」


 その本心からの熱い吐露を、アリシアは微笑みだけでもって退けた。



***



 居間に一人残されたライアンはソファーに座りこみ、打ちひしがれた。

 あの娘は確かに彼の知っていた純真無垢な可愛らしいアリシア・クロウではなかった。冷静で思慮深く美しいアリシア・クロウだった。そして、以前のアリシアよりも、もっとずっとライアンの心を掴んだ。

 昔のアリシアも彼にとっては非常に好ましい娘ではあった。

 今もマーサ・ドーソンに代表されるように、実際、アリシアのような明るく素直といった程度の娘は彼の周りには枚挙にいとまがなかった。それでも彼はアリシアに魅了された。受け取り用によっては、享楽的で衝動的ともとれる振る舞いは、他の女性ならば不快になってもおかしくなかったのに、アリシアに関しては許せた。

 今のアリシアは昔とは真逆に近いほど変わってしまったが、それは思えば、ライアンの本来の理想とも言える女性像だった。だが、まったく昔のアリシアがいなくなった訳ではないことも彼は知ってしまった。歳月は彼女を一見、変えたかもしれないが、本質までは変化させるに未だ至っていない。今と昔を絶妙に兼ね備えたアリシアは、彼をより一層、惹きつけた。

 さらに付け加えれば、レインバード邸の令嬢・アリシアの時も、ハートヒル邸の家庭教師となったアリシアも、彼の財産に目がくらむことはなかった。婚約間近とは言え、まだ約束をした訳ではないらしい男よりも遥かに財産のある自分の求婚を退けた。彼にしても自身の財産を餌に彼女を釣ろうとした卑しさ、屈辱を耐えても、アリシアを欲したと言うのに……。しかしながら、その想いはもう届くことはなかった。

 彼は彼女を結果的に裏切ってしまったのだ。その報いとして、彼は彼女の結婚を間近で見ることになるだろう。

 そうならない為には、ライアン・ソーンはすぐにでもハートヒル邸を出るべきだと思ったが、昨日の今日ではあまりに早すぎる。エドワード・マーチンが帰ってくるまでは、彼の大事なアリシアは一人身のままである。そう思い直し、滞在を続けることにした。

 彼としても、まさかその滞在が、一週間を過ぎるとは思わなかった。

 馬車で行って一日、滞在して一日、帰って一日。大事な勤めもある。エドワードは三日もあれば帰ってくると思われていたからだ。

 一週間が十日になろうとし、エドワード・マーチンが帰る前に、マーサ・ドーソンの母親一行がやって来ることになった。

 人が多くなったこともあり、ライアンは屋敷を辞する絶好の機会を得たはずだったが、それでも、彼は立ち去り難い思いに引き留められた。

 毎日、会えば会うほど、知れば知るほど、アリシアの存在は彼を捉えて離さなかった。

 そしてまた、エドワードの長い留守が妙に気になって、引っかかっていた。何かあったに違いない。結婚の許可を貰いに行き帰ってこないとなると、反対されているのかもしれない。とは言え、その理由が見当もつかなかった。ドーソン夫人とウエスト夫人の会話からも二人の結婚は確実視され、歓迎されていた。エドワードという男は、女の持参金を狙うような野心的な人間でもない。レインバード邸からはじき出された娘を救う行為でもあり、師とされる人間も、それを反対することはないだろうと思った。

 では何か。

 マーサ・ドーソンの母、シルビア・ドーソンが来るという日の午前。ライアンはドーソン夫人、マーサ、アリシアと共に居間で、その到着を今か今かと待っていた。

 マーサはそわそわと何度も窓とソファーの間を往復していた。普段なら落ち着くように嗜めるドーソン夫人もアリシアも、今日ばかりはそれを許した。

 その内、家令が扉を開け入って来た。銀のお盆の上に二通、手紙が載っている。

 まさか予定が変わったのではないかとマーサは青ざめたが、手紙の主はエドワード・マーチンだった。ドーソン夫人とアリシアに書かれた手紙を、それぞれ受け取る。アリシアはついに自分との結婚が許されたことを知らせるものだと思った。ドーソン夫人の手紙にも同じことを伝えているだろう。

 そこで自分の手紙を開封するのは止め、ドーソン夫人の驚きと祝福の言葉を待つことにした。

 ライアンからの思いもかけない求婚を退けた彼女は、勤めてエドワードとの結婚とその成功を祈っていた。そのエドワードの長い不在と音信の無さに不安を感じ始めていたが、これでもう大丈夫だろう。これから起きるドーソン夫人とマーサの反応を想像し、微笑みを浮かべながら見守る。近くでまるで死刑判決を受けるような面持ちでアリシアを見るライアンのことは敢えて無視した。


「あらまあ! 大変。ミスター・マーチンが結婚なさったそうよ!

アリシア、あなた知っていて? ミスター・マーチンが結婚して、お嫁さんを連れて帰ってくるんですって!」


 アリシアは視線の端でライアンが勢いよくソファーから立ちあがり、そしてすぐさま座ったのを捉えた。

 まぁ、私よりもあの人の方が動揺しているように見えるわ。

 あまりの衝撃に、アリシアの思考は鈍くなっていた。


「ねぇ、アリシア? 知っていた?

ミスター・マーチンはお嫁さんを迎えに行っていたのね。

水臭いわ。教えて下されば良かったのに。

あなたもずるいわ。知っていたのでしょう? こっそり教えてくれても良かったのに。私、誰にも言ったりはしませんでしたのに。

私、おしゃべりだけど、口の堅さには定評があるんですからね。

それに良いお話でしょ? そりゃあ悪い噂話や陰口なんかは遠慮したいですわ。聞いているだけで、こちらの品性まで疑われてしまいます。でも、今回はそうではないでしょう?

おめでたい話はね、私、大歓迎ですの。結婚すると知っていたら、お嫁さんにお祝いの品だって用意したかったし、結婚式にも出たかったわ。

ミスター・マーチンはなんといっても、私たちの教区の牧師さまなのですよ。それを遠方で人知れず結婚式をするなんて!」


 ドーソン夫人の長々としたおしゃべりは、アリシアの気持ちを落ち着けるのに役に立った。エドワードの手紙を握りしめながらも、アリシアは冷静さを装う。


「私もミスター・マーチンがあちらで結婚する予定だったなんて知りませんでした。

とても驚いていますわ。ええ、とても。とても、驚きです」


 そのアリシアの言葉を痛ましい気持ちと尊敬の念と、それから少しの希望の面持ちで、ライアンは聞いていた。

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