28.追求
「両膝は軽い打撲と擦過傷。右足首も軽い捻挫のようですから、湿布薬を貼っておくので、それで様子をみましょう」
医務局の一角にある治療室で、所属している医師の一人に診察してもらい、両膝の消毒と右足首の処置を受けている間、ずっと居心地が悪くて仕方がなかった。アルベルト様が私を医務局に連れてきた後も、エリクス殿下の元には戻らず、傍らに立って治療の様子を見ていたからだ。
傍から見れば、いかにも心配で立ち去りがたいといった様子に見えるのだろう。私達の婚約破棄云々のいきさつを知っているらしい医師と助手の女官は、時折意味ありげな表情で視線を交わしている。
本当に、居たたまれない。
傷の痛みよりもずっと、心理的な負担の方が大きい。もう、いい加減、ここから立ち去ってくれないものだろうか。
「ありがとうございます。もう平気ですから、お戻りになって?」
にっこりと作り笑顔を浮かべながらそう告げてみるも、こちらの気持ちなど察する様子もなく、アルベルト様は首を横に振った。
「その足であの踵の高い靴を履いて歩くのは無理だ。一人では寮まで戻れまい」
真面目くさった顔でズバッと痛い所を突かれてしまい、黙って俯くしかなかった。
けれど、このままでは、またアルベルト様に抱きかかえられて寮まで戻ることになってしまう。この医務局までだって、随分とすれ違う人々の好奇の視線に晒されてきたというのに、更に寮までだなんて心がもたない。
「けれど、これ以上ご迷惑をお掛けする訳にはいきませんわ」
「迷惑などと思ってはいない」
「ですが、エリクス殿下のご命令は、私を医務室まで連れていくこと、でしたわよね? もうこれ以上、私の個人的な問題に付き合っていただく理由はございませんわ」
いいから職務に戻れと言外にアルベルト様を説得しつつ、興味津々でこっちの会話に聞き耳を立てている医師たちに在らぬ誤解を与えないように、これは第二王子殿下のご命令でこういう事態になっているのだと状況説明を盛り込んだ。
すると、アルベルト様は小さく息を吐き、少し離れた机で診療録を書いている医師に近づいていった。顔を上げた医師に、こちらには聞き取れないほどの声で何か話しかけると、医師は小さく頷き、近くの作業台で診察後の片付けをしていた女官に声を掛ける。それから二人は、私とアルベルト様を残したまま、そそくさと部屋から出て行ってしまった。
「……え、あの?」
「コーデリア」
ちらりと医師と女官が治療室から出て行ったのを目の端で確認したアルベルト様は、思ってもみなかった状況に戸惑い、挙動不審になってしまっている私の正面に立ち塞がった。
「単刀直入に聞く。何があった?」
「……え?」
「泣いていただろう。オーレンに何をされた?」
椅子に腰掛けている私の顔を覗き込むように屈んで、アルベルト様が問いかけてくる。
……何で。
アルベルト様の口調も表情も、まるで私の事を心から案じてくれているように見える。でも、感謝や喜びではなく、湧き上がってくるのは戸惑いしかない。
「何をって、……別に」
何をされたかと言われても、思い返せば何をされたわけでもない。
ただ、オーレンが掴んでいた私の腕を離した拍子に、バランスを崩して転んでしまっただけだ。
泣いてしまった理由は、まるで絵画のように美しい二人の前に無様に這いつくばる自分が、酷く惨めに思えたから。オーレンがまだアリアンナ様を愛しているのではという、自分の心の中でずっと消えずにいた不安が、溢れ出したからだ。
けれど、アルベルト様に、そんな自分の心の内を赤裸々に打ち明けるなんて出来ないし、したくもない。
そもそも、こんな風に心配してもらうことすら重荷に感じるほど、過去、私達の間には決定的な決裂があったのだ。
なのに、何故アルベルト様はこんなふうに私の事を気に掛けてくれるのだろう。
ドレイク侯爵邸での夜会で男性に迫られていた私を助けてくれ、その後も危険が及ばないよう見守っていてくれたことがあった。
侍女として王宮へやってきたばかりの頃にも、ニコルに食堂から寮まで送るよう指示してくれたこともあった。
私の事が憎かったのではないの? 愛するリリィ嬢を傷付け、二人の間を裂こうとしていた私のことを、何故こんな風に心配してくれるの?
戸惑いながら沈黙した私に、アルベルト様は更に言葉を重ねた。
「では、聞き方を変えよう。きみは、オーレンとアリアンナ様が相思相愛であると承知しているのではないか?」
相思相愛……?
「オーレンは、アリアンナ様との関係を隠蔽する為にきみを利用している。そうだろう?」
「何を言って……」
頭の中が真っ白になった。
オーレンは、確かに私のことを愛していると言ってくれた。けれど、その後も、彼はまだアリアンナ様の事を想い続けているのではないかという不安は拭い去れず、ずっと私の心の奥で渦巻いていた。
相思相愛? まさか、アリアンナ様もオーレンのことを愛している……?
アリアンナ様には、エリクス殿下という婚約者がいる。第二王子と、軍部に多大な影響力を持つマクレーン公爵家の令嬢との縁談は、王権を強固なものにする為に必要な政略結婚以外の何物でもない。確かにそこには、お二人の個人的な意志など存在しないだろう。
けれど、リリィ嬢に心惹かれていくエリクス殿下のご様子に心痛めているアリアンナ様のお姿からは、エリクス殿下への一途な思いを感じずにはいられなかった。……あの時は。
けれど、そう言われれば確かに、先程垣間見たお二人のご様子からは、結婚を間近に控えた婚約者同志にしてはよそよそしく、それどころか異様な緊張感が漂っているように思えた。
……そうなの?
不意に、突き刺すような胸の痛みと、喉を塞がれるような息苦しさに襲われる。
……やっぱり、私は騙されていたの?
――あのオーレンが、私なんかを本気で愛してくれるはずがないじゃない。
そんな地の底を這うような己の声が聞こえたような気がして、もがくように立ち上がりかけたところを、力強い大きな手で椅子へと押し戻される。
泣き声に似た悲鳴が漏れる。押し寄せてきた感情に心が押し潰されそうで、暴れられずにはいられない。
「落ち着くんだ、コーデリア」
ぐっと腕を強く掴まれて、痛みのあまり我に返り動きを止めると、アルベルト様の顔がすぐ目の前にあった。
「やはり、そうだったんだな。……辛かっただろう、コーデリア」
アルベルト様の労わるような表情と優しい声に、堰を切ったように涙が溢れ出た。
……何故、あなたがそんなことを言うの?
私を捨てたくせに。幼い頃からずっとあなたの為に生きてきた私ではなく、リリィ嬢を選んだくせに。あなたに婚約を破棄された私がどれほど嘆き苦しんだか、あなたは知らないでしょう?
もしかして、今更償いたいとでも言うの? それとも、侯爵家の跡取りとして相応しい結婚相手が見つからないことに焦りを感じて、私のことが惜しくなったの?
涙が溢れて止まらない。それでも、懸命に目の前のアルベルト様を睨みつけた。
その時、ふと、アルベルト様の表情が、まるでこちらの心の内を探っているかのように見えて、違和感を覚えた。
違う。この人は、私に同情し寄り添おうとしてくれているのではない。まるで、私から何かを引き出そうとしている。
そう思った瞬間、ハッと息を呑んだ。
……まさか。
脳裏を過ったその可能性に、身体が震えそうになるのを誤魔化すように両手をぎゅっと握り合わせる。
オーレンとアリアンナ様が愛し合っていることが例え真実だとしても、それは絶対に許されることではない。アリアンナ様は、この国の第二王子の婚約者なのだ。マクレーン公爵家の力が欲しい王家は、アリアンナ様のことは守るだろう。けれど、第二王子から婚約者を奪おうとしていると認定されたら、オーレンは一体どうなってしまうのか。
「……オーレンは私の事を愛しているわ」
動揺を隠せないまま視線を泳がせつつも思わず口をついて出たその言葉に、自分自身が驚いた。
けれど、すぐにそれこそが真実だと、真実にしなければならないのだと、突き上げてくる衝動のままに、目の前で訝し気に眉を顰めるアルベルト様に勢いよく言い放った。
「私達は愛し合っているのよ! それなのに、何故あなたはそんな嘘を吐くの? いくら私が憎いからって、酷過ぎるわ」
つい先ほど、リリィ嬢と詰り合いをした時と同じ、感情に任せた酷い口調だった。
さすがに面食らったらしいアルベルト様は目を丸くして固まった。
自分で発した言葉が余りにも酷すぎて、自己嫌悪に陥り、顔を手で覆ってすぐさまこの場から消えてしまいたい。
けれど、もう後には引けなかった。
私とオーレンは愛し合っていて、オーレンとアリアンナ様の間に公言できないような疚しい事など何一つない。今は、それが真実だと貫き通さなければならない。絶対に。
「きみは認めたくはないかも知れない。だが、これが現実だ」
驚きから我に返ったアルベルト様は、私とは真逆に、冷静な口調で語る。私の表情、目線、瞬きの一つまで見逃すまいという風に、冷静に私の目を見つめながら。
「嘘よ」
その視線から逃れるように、プイッと横を向いた。
見透かされてしまう、私の心の中にある不安を。それが、オーレンを窮地に追いやってしまう。彼の身を滅ぼしてしまう。
「嘘ではない。第一、あの男が幼い頃にきみに一目惚れをしたけれど、私との縁談が成立していたから一度は諦めたという馴れ初めも信じ難い。私が知る限り、過去、オーレンがきみに関心を寄せている様子は微塵も感じられなかった」
痛い所を突かれて返答に窮する。
確かに、それは私でさえ設定に無理があると感じていた作り話なので、反論なんてできない。けれど、それが嘘だと認めれば、芋づる式に私達の関係が偽装から始まったことを認めてしまう。そうなれば、今は本当の恋人同士であると主張しても、説得力に欠けてしまう。
絶対に引くわけにはいかない。オーレンを護る為には。
「……もしかして、私と復縁をしたいから?」
追い込まれた私の口から飛び出したのは、アルベルト様の傷口を抉る刃物のような酷い言葉だった。
「だから私達の仲を裂こうとしているの? ご自分がリリィ嬢に捨てられたからって、自棄になって私達の幸せまで壊さないで!」
驚愕の表情で目を見開いたアルベルト様の顔が、みるみるうちに赤黒く歪んでいく。これほど怒りの感情を浮かべたアルベルト様を、私は見たことがなかった。
……ああ、私はなんという酷い事を言ってしまったのだろう。
後悔してももう遅い。彼の追及を誤魔化す為に、私は取り返しのつかないことをしてしまった。アルベルト様を傷つけたかった訳じゃなかったのに。
罪悪感で押しつぶされそうになりながらも、今言った言葉を撤回することはできない。ただ、アルベルト様が込み上げる怒りを何とか冷静に飲み下そうとしている、その顔を見つめるしかない。
いや、これはやっぱり言い過ぎたと謝るべきだ、と口を開いたものの、意味を成さないしどろもどろな単語しか出てこなかった。
すると、アルベルト様は詰めていた息を吐いて立ち上がり、私から距離を取ると自嘲するような笑みを浮かべた。
「……きみとの復縁など有り得ない。私の父が何やら企んでいるようだが、私にその意志はない」
「それなら良かったですわ。安心しました」
わざとらしく大袈裟に胸を撫で下ろし、ツン、と顔を逸らしてみせながら、リッツスタール侯爵が私達の復縁を画策しているという話を母に聞いてからずっと抱いていた不安が思わぬ形で解消されたことに驚いていた。
それにしても、やはりアルベルト様には私に対して恋愛感情など一欠けらも無かったのだ。改めてそれを思い知らされて、思わず苦笑いしそうになった。
何はともあれ、アルベルト様からの追及は取り敢えず回避できそうだ。心のなかではまだ警戒を緩めずに、すでに止まっていた涙の跡を拭い、無理矢理に愛想笑いを浮かべる。
「ここまで運んでいただいてありがとうございました。寮まではオーレンに送ってもらいますので、ご心配なく」
勿論、私の事を愛しているオーレンは、当然ここへ来てくれる。
そう言わんばかりに自信満々でにっこり笑うと、アルベルト様はまるで私の嘘を見抜いているかのように小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
その時、ふと、これが飾らないアルベルト様の偽りのない本心のような気がして、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。




