XIII
蝋燭をかかげながら、和歌子が尋ねる。
「見える?」
「まだ」
少しでも遠くを照らそうと、袖を背中へ引くように蝋燭をもち上げると、百枚ほどは並んだ大屋根の瓦が列をなして浮かびあがった。と同時に、木々を押し倒し、枇杷の梢を圧するように、和歌子の黒髪の大きな影が落ちる。屋敷の側から見れば、衣紋を半ばに抜いた凄艶な白蝋の仮面が、垣根越しにせり上がるように見えただろう。
後刻、その姿を目撃した門番の爺やは、「ぎゃっ」と叫んで腰を抜かすことになる。
今はまだ与四郎が、魔法の猿のように槙ヶ原の屋根を這いまわっているところだ。やがて破風の引き戸を探し当てた小僧は、すぐさま戸の内にミミズクを放った。役目を終えてヌッと身を起こし、チョロチョロと甍の波をつたい戻って、いきなり枇杷の木をガサガサとざわめかせると、錦木の庭に帰還した。
「やったよ」
「まあ、嬉しい。……静かにして」
十四分ほどは経っただろう。寝静まった槙ヶ原の家に、たちまち騒擾が起こった。開けたてする戸や障子の音が轟きわたり、板戸や襖の倒れる音が、あちらでは隠もって、こちらでは乾いた音をたてて鳴り響いた。悲鳴をあげる女の声。わめき叫ぶ男の声。真夜中の東京で、この広大な新築の屋敷だけが、七転八倒の騒ぎに見舞われている。あちこちの部屋の口々から、玄関へ、庭へ、台所口へと、人々があふれだすように、地震だ、火事だと駆けだし、飛びだしてくる。
のちの話では、座敷から座敷へと火の玉が舞い飛ぶのを見たという者がいた。あるいは緋色の衣をまとった山伏が大股に寝床を踏み越えたという者もいた。なかには奥殿の霧之助が突如として錯乱し、大刀を振りまわしていると見誤った者もいた。範子という名の姫様は、猿が布団にもぐり込んだのだと思った。この姫様は、慌て騒ぐ家族のなかで、なかば忘我の状態になり、奥の部屋に駆けこんできた料理番の女とすれ違って台所口から逃げだすと、「あれぇ」と悲鳴をあげた。
例の門番の爺やは、屋敷の騒動で目を醒ますと、用心棒にでもなったつもりで高箒を小脇に取って出た。そこで姫様の悲鳴を聞いて駆けつけようとしたところを、和歌子の姿に腰を抜かしたのである。
まことに恐れ多いばかりだったのは、当主ご夫妻の一件である。物音を聞いて御寝間で目醒め、一大事だと駆けこんだ家令の声に立ち上がったところへ、開いた襖から潜りこんだのが、真っ赤なマントを舞い踊らせたミミズクだった。
「衣服に、火がついた」
と仰せられると、奥方はあわてて裾をまくっただけで済んだのだが、子爵はご家風である鬱金色の越中ふんどし一丁の裸体を、不幸にもさらすことになった。
家中の人を呼ぶ姫様の声を聞き、玄関番の書生をはじめ、家扶、家従、小間使いたちが物置前に押しよせてみると、枇杷の葉隠れに見えたのは、白衣姿の女だった。
蝋燭を差しだした和歌子は、
「垣根越しにお見舞いを申し上げます」と、澄まして言ったのである。
さて、その夜のうちに、しかめっ面の家従に書生がつきそい、それに交番の警官が加わって、錦木の家を訪ねてきた。表通りから露地を回って乗りこむと、いずれも血相を変えて問いただす構えである。対する和歌子は慇懃に手をつくと、
「お恥ずかしい。鳥目ゆえのふつつかさで飼い鳥を逃がしまして……」
と、しらじらしく言ったのである。
そう言われれば、それ以上問い詰めるわけにもいかない。なかでも書生は、意気込んで握りしめていた太いステッキを、巻いたしっぽのようにして帰っていった。
しかし、ミミズクである。
この、魔の女の使者は翌早朝に、朝の嵐がサッと吹き、遠く飛んできた神社の大銀杏の葉がはらはらと舞いこむなかを、血だらけの死骸になって帰ってきた。
執事の近藤友秀は、紐で縛った死骸を持ちこむと、こう伝えた。
「奥殿まで乱入したが、霧之助殿が、太刀でお仕留めに相成ったぞよ」
受けとったミミズクの死骸を前に、和歌子はにじんだ涙をぬぐった。散りこんだ銀杏の葉は、和歌子の鬢にさした黄楊の櫛をかすめて飛んだ。




