XI
「これはなんともいえませんねえ。すべすべとして柔らかくって、たまらなくいいもんですな。不思議な手触りですよ」
「衣触りだとお言い」
そう言った和歌子は、六畳の闇のなかに灯りも置かず、卓袱台に寄りかかって、按摩に肩を揉ませている。
「人聞きが悪い。身体に直接触らせてるようじゃないの」
「えへへ、ご新造さん、いえ、お嬢さん、あなたのお身体ぁ、僕はね、光絹の羽二重というんですかね、そのものだと思いますよ」
按摩の言うとおり和歌子は、ユダヤの女の寝間着に似た、袖の長い白羽二重をまとっている。もとの白さに重ねて灰汁洗いした雪の白さに、散り残る紅葉のような緋鹿子を、寒いからと下に襲ねている。緋鹿子の両袖がないのは、片方は与四郎の、もう片方はミミズクのマントになったからで、今も床の間の棚では、まっすぐにこちらを見据えたふたつの眼が輝いている。ときおり、鳥の羽音とは思えないサラサラという音をたてるのは、翼がマントを翻させるからだ。
和歌子は、例の黒地に菊と水仙をあしらった友禅染めの掻巻の朱鷺色の裏地をすべらせて、膝に掛けた。
紺絣の衣服に共地の羽織を、按摩は白い紐で大きく結んでいる。十六、七で生白い肌をした、頭の先のとがった小僧である。戸外を流していたのを、先刻、和歌子が呼びこんだのだった。
声変わりをした、舐めるような声で、按摩が言う。
「ずいぶんですよ、僕はね、たくさんのです、数限りなくと言いたいほどの女をですね、手に掛けてきましたけどね」
「商売繁盛でけっこうじゃないの」
「えへへ、商売じゃありません。別の方面ですよ。ひひひ、もちろんアレです。商売のほうだってね、実際のところやってもやらなくても、これで生活がどうなるというんじゃありませんや。ですからね、治療に呼ばれて、客が男だと断っちまいまさあ。僕の療法は男には効かないやつなんで」
いきなり遊び人のような物言いになる。
「客が怒るだろうね」と、煙草を喫もうとしてうなじを垂れた和歌子の、按摩の揉む手にまかせた肩が品よく揺れている。
火鉢の火の影で、糸のように閉じた見えない目の目尻を眉といっしょに下げると、按摩はニヤリとして、
「でもね、男の客にゃ、それなりの使い道があるんです。もともと男には効かないものなのに、相手はふざけてやってると思うから、しっかりやれ、なんて言いやがる。そんな奴には背中にへのへのもへじでも、指の先でのたくらせてやりゃいいんです。で、そのうちに女の話を聞かせてやるんだ。僕の知ってる、たくさんの、いろんな種類の女の話さ。たいがいの男が、それからそれからって、コマを回すみたいに、僕の指先でぐるぐると身もだえしはじめる。唐人髷から結綿、文金、庇髪、女優髷、これが本命の円髷と、僕の女たちの話をして、そのなかからね、よりどりみどりに相手が好きそうなのをみつくろって、世話してやるんですよ。ほどこしものをしている気分さ。自分の女だっていっても、こっちは飽き飽きしてるんだから、分ければ功徳になるってもんだ。そういう男の客から礼はもらえるし、家からも祝儀は出るし、だから小遣いは有り余ってるんだ。女が上玉なら、こっちから注ぎこむこともある。ああ、手を動かしてると、懐の財布がつっかえていけない」
そう言うと、首からはずした財布の紐をぐるぐる巻きにして、乱れた掻巻の裾へ手さぐりで置くと、その上にメリヤスの下着がはみだした膝を乗せた。そして、和歌子の背中の白衣に胸を押しつけるようにもたれかかると、首を突きだし、煙草の煙に鼻を寄せるようにして、フンと嗅いで、
「さあ、横におなりなさい」
衣擦れの音がした。和歌子は按摩の言うがまま、横たわったようだ。腹ばいになって脚を隠すように掻巻を引いたので、乗せていた按摩の膝は畳に落ち、続けて財布の転がる音がした。
「ひひひひ、ご新造さん、お譲さん、いや姉さんがいいや。色気があって。歳はいくつですか」
「…………」
「えひひひ、当ててみせようか。なんたって場数を踏んでますからね。とくに女となりゃ、生まれ月まで当てられるくらいなもんだ。こうして擦ってみた背格好でね。うちにだって、髪の毛から足の親指の先まで、僕の手の内に転がっている女が八、九人はいるんだから。だがね、今も言ったとおりだよ。ひひひ、姉さんのような、衣触りって言えばいいのかい、ひひひ、こんなのは初めてだから。違ったら謝るよ。蜜豆三杯はおごってやる。……二十四かね、五かね。たまらねえ年頃だね」
「按摩」
「…………」
「ほッほう」と、床の間でミミズクの声がする。あたかもここは幽冥な深山で、火鉢の灯りが谷間の一軒家、といった静けさが部屋をみたした。
「按摩」
「え、今のはなんだ?」
「ミミズクが啼くんだよ。……山奥かもしれないよ。谷底だか、墓穴だか、お宮だか、社だかわからないよ……按摩」
「按摩呼びはひどいな。君、君だから僕はあえて怒ったりはしないが、若師匠とか小さな先生とか言ってくれたまえ。これでも中学の一年生は学ってるんだ。制帽をかぶって靴を履いてね。そんときにゃもう、女学生を野原に押し倒してましたよ。ひひひ、コロンと、たあいのないもんですぜ」
「ちょっと」
「なんだね?」
「ここをどこだと思ってるんだよ」
「霞町の錦木の家さ。悪いけど知ってるよ。麻布じゅうで知られるどころか、浅草の姉さんだって知ってるよ」
「浅草の姉さんだって?」
「知ってるでしょう、浅草六区じゃ有名だ。緋袱紗のお染といってね、芝居のお染久松のお染にあやかって、お遊びでつけた名前だよ。抱えの女を八人も置いた大きな女郎屋をやってるのさ。僕は実の弟だけど、顔が姉さんそっくりだといってね、久松さーん、久松さーんって、女学生がつきまとって、ひひひ、女にもてすぎて、淋病で目が見えなくなった。でもね、その代わり心の目は鋭く光ってらあ。姉さんの鼻筋の通った顔や髪の艶までよく見える。……鳥目だって? 可愛そうだね。寂しい顔をしてますねえ」
「ミミズクが鳴く山家だもの、按摩」
「まだ按摩なんて言ってら、怒るぜ、僕は」
「勝手におし」
「いいのかい、ひひひ、ひひひ。そう言われると、君だけに怒れない。さあ、こっちを向いておくんなさい」
黒髪が、はらりと枕にかかる音がする。たきこめた留木の香りがサッと散る。そこにミミズクの声が聞こえ、秋深まる森に桂が薫るかのようだ。
久松の手が、羽二重の袖のあたりでふと止まった。
「上手いだろう、姉さん。商売は商売で、治療のほうも本筋さ」
「すじだかはんぺんだか知らないが、浅草からこんな所まで来ているようじゃあ、仕事にあぶれてるんじゃないか」
「冗談言うんじゃないよ。そんな、銭金に不自由して働いているような奴と同じに見てもらっちゃあ困る。といっても鳥目だから夜は見えないか。なんなら昼間に出直してきてやってもいいぜ。
浅草にも飽きちゃったから、この半年ばかりは麻布十番に住んでいる二番目の姉のところにいるんだ。そこにもやっぱり四、五人の女がいるが、場違いな土地柄だけに女郎屋ってわけじゃねえ。だが、鯛も鮪も食い飽きた僕には、秋刀魚を食って丸八の歯磨き粉で歯を磨くのも悪くない、ってとこだ」
「お前、口ほどにもないじゃないか。かわいそうに使用人をいじめるなんて」
「ばかなことを」
久松は、畳を膝でぱたぱたと踏んだ。
「僕の男ぶりを見せてやりてえよ。ちょっとでも客が切れると、あっちからも久松さん、こっちからも久松さんと、身が持たないくらいなもんだ。浅草も十番も、女の味に変わりはねえよ。男がガツガツしてるのも同じだけどね。女というのは、どうしてまた、あんなふうなのかね。このところの、しょぼしょぼと雨が降る時雨どきなんぞ、材木屋や石屋の角に濡れしょぼくれて、浮気めあての奥様なのか、客を引いてる立ちんぼなのか、夜中の十二時過ぎだというのにつっ立っている。そういうのを悲惨だの残酷だの、社会問題などと言ってるけどね。ふん、主人は風紀を引き締めたがるけど、使用人の女はみんな、男がいなくて寂しがってるんだよ。男のほうもまた、いい女がひっかからないかと、朝から晩まで釣り糸を垂れてる。どんな雑魚が釣れるんだろう、間違って竜宮城を追い出された鯉でも釣れないかなって腹で、気楽なもんだね。お汁粉三杯に蕎麦が三杯、おでんの立ち食いをしようってくらいにがっついてる。鮒も鯰も逃がさない。それでも相手が見つからなきゃ、明け方の三時、四時でも、久松さん、お願いだから相手をして、なんてことになる。じっさい体がもちませんよ。どうして女はああなんだろう。商売女だけじゃありませんよ。治療をしてくれと呼びこまれたのがどんな家でも、旦那がひと晩留守にしてるとか、雇い主が半日はいないとか、そんなのばっかりだ、ふん」
和歌子の肩が静かに揺れた。
「按摩ごときのかなしさだね。お前なんかは前世の因果が祟って盲人になったんだろう。百姓女や田舎女ばっかりひっかけて、女中でもいいや、とか言ってる口さ。お前、心を入れかえて、一度は江戸っ子だという女に、口だけでもきいてごらん」
「ふん、ではなにかい、姉さんがそうとでもいうのかい」
「ああ、柳橋のお姫様だよ。霞町のこの家は御別荘さ」
「灯りも点けられねえ貧乏所帯が御別荘だと。今夜、僕が来たときも、魚屋だか牛乳屋だか、ずいぶん取り立てが来てましたぜ。真っ暗だから帰ったがね。……なにも、そんな負け惜しみを言うんじゃありません。男っ気もないし寒そうだ。こんな暖まるものはどうですか」
と、按摩は、くだんの財布を片手で探って引っつかむと、和歌子の懐中へ紐ごと突っこんだ。はずみでずり落ちた白羽二重の袖をつかんで、ぐいっと引く。襟が翻って、煙草の火と唇がサッと赤く輝く。
「ほほほ、ふふふふふ」と、笑いの花も紅色である。
ミミズクが鳴くやいなや輝かせる、あの爛々(らんらん)とした眼の光芒のように、稲妻が白くキラリと走った。和歌子の頬に光を流したのは、按摩が右の逆手に構え、寝間着の喉にあてられた氷の短刀である。
「生意気なアマだ」
按摩の語気も血相も黒く変わっている。
「ひやりとしただろう。氷じゃねえ、怯えて口もきけねえようだな。さあ、キャッとでも言ってみろ。長屋じゅうが飛びだしてくる前にひと抉りだ。よう、俺ぁ按摩だ、目が見えねえんだ。てめえの懐には何がある。俺の財布だ。やい、大岡越前のお白洲でも、罪に問われねえのは俺のほうだ……ひひひ」
と笑った。この按摩は、あの手がだめならこの手を使う久松市と、その筋では知られた女たらしの低脳児だった。
先刻から響いていた、麻布連隊の就寝ラッパが鳴り止んだ。
「ふふん」という声が聞こえたきり、しんとして、掻巻も冷たい肌触りである。
驚いて気絶でもしたのだろうと久松は思った。横たわったままの和歌子を撫でてみるつもりで左手を延ばすと、短刀にあたった。もう脅す必要もないと引こうとすると、向こうからも引いているように動かない。怪訝に思って、左手を胸もとに戻してぐいっと引きよせると、今度はふわりと手応えもなく引けたところを、起きあがった相手に肩でトンと突かれた。「立たんとすれば磐石に押されて。更に立つべきようもなし」と『恋重荷』の詞のように、久松市は後ろにひっくり返ってくしゃんとなる。
左手で探った久松は驚いた。指が触れてピクリとした。和歌子の手が、短刀の刃を引っつかんでいたのである。
「ば、ば、ばか、指が落ちるぜ」と、慌てて言う。
このとき、片手に持った火箸で火鉢の火をかき立てた和歌子の顔色は、神々しいまでに白く透き通り、
「ふふん」と片頬で笑った。それさえ白く思われる。
「ええい、このきちがいめ」
「小僧、てめえたちの持つ脅しの小道具は、刃を落としてるってのがお決まりだ。ぐだぐだ言ってる暇がありゃ、二十五座の座頭神楽にでも出て踊ってな」




