第69話 異郷の琴夜〈2〉
―――― 王允に処刑された亡命の名士……蔡邕のことか。
王允は、あの暴君董卓を呂布と共に誅した首謀者である。
邪から世を救う大功績を成し遂げた英雄。
にもかかわらず、その後の偏った政治采配により一瞬で身を滅ぼした、哀れ短命の士だ。
王允が犯した誤りの象徴が、逸材学者と名高かった蔡邕を、ほとんど個人的感情から、強引に罪死させてしまったことであった。
世人の敬愛を集めていた蔡邕の死は、知識人のみならず、あまねく末端庶民までをも悼ませた。
とりわけ嘆いたのは江東の人々。蔡邕は十二年という長きに渡る亡命中、江東の呉に、最も長く滞在していたからである。
―――― 蔡邕は琴の名手。泰山の羊氏と懇意にしていたことは、たしかに聞いている。
実は羊氏、蘆江郡とも縁が深い豪族であった。
蘆江出身である周瑜は、当然そのあたりも詳しい。
情報をつなげると、珖明が幼少期に手ほどきを受けた琴名手というのは、どうやら蔡邕らしい、ということになる。
珖明の父親が泰山の丞だったのであれば、蔡邕の経緯話とも整合する。虚言ではなさそうだ。……
―――― まさか、蔡邕とまで関わりがあったとはな。
筋をまとめ終えた周瑜は、努めて喫驚を抑えている。
この者はいったい、いくつの隠し種を持っているのか。
……
広間に面した院子では、秋虫たちが、琴音が止むのを待ち構えたとばかりに、己が身を震わせ始めていた。
幾種かの独特色を持った、涼しげな鳴き声が届く。
秋虫は個々の鳴音も美しいが、多種が集まると不思議にも、人耳にいっそう心地よい。
季節の風情に耳を浸らせながら、周瑜は琴弦の表面を右から左へ、掌で一度、すっと撫で流した。
「そうか。良き師範からの手ほどき経験があったのだな」
蔡邕に張り合おうとするほど、彼は自惚れていない。
琴を傍に納め、ゆったりと体を寛がせた。
「その右腕が癒えたら、ひと曲聴かせてくれ。叶えばいつか、共に奏しよう」
珖明は、深更の夜空を映す水鏡のような瞳を仄かに細める。
「あなた様のように優れた楽の才人と手合わせなど。……ですが叶ったとすれば、幸甚に存じます」
珖明がいつも見せる特有のはぐらかし態度が、今宵はない。
よほど周瑜の奏に感銘したのか。
「はは。ではこちらも、より腕を磨いておかねばな」
周瑜は素直に賛辞を受け取った。
社交辞令が含まれているかもなと思いつつも、気分は良い。
次いで、周瑜は室外に向かい人を呼んだ。すぐに家人がひとり現れる。
「昼間の騒ぎで、今日はまともに食事を出来ていなかったのだ。何か用意いたせ。客人もさほど食欲はないだろうが、少しは腹に入れたほうが良いな。彼には軽いものを」
「承知いたしました」
かしこまった家人は、足早に場を下がっていく。
思いつきのような周瑜の行為に、珖明は目を瞬かせた。
たしか『今日は休め』と、この男は言ったはずだったが。
それでもこたび珖明は、不満顔もせずおとなしく従った。
周瑜の本意を汲んだのだ。
そもそも、珖明を強く自邸に引き留めようとした理由。
周瑜はふたりで、直接話したいことがあるらしい。
……
◇◇◇
「この飢饉で、袁術が陳国(河南省周口市一帯)に援助を申し入れた」
会食を始めた周瑜が早速切り出す。これまでの主君・袁術に対して、すでに尊称を使っていない。
「陳国、ですか」
珖明は羹(スープ)をひと匙、口にした。
「陳相(首相)の駱俊は、仁政を敷いていることで知られますね。そのおかげで、豊かで安定した国と聞いています」
今回の大飢饉に窮した袁術は、そこに目をつけたのだ。
周瑜が、ふん、と鼻を鳴らす。
「しかし駱俊は袁術をひどく嫌っているからな。応じるのはあり得ん」
「……」
珖明は直近の情勢図を頭中に描いた。
袁術と陳国間で、近々攻撃的一波乱が起こるのは充分あり得よう。
肝心な点は、陳国が曹操の本拠地である豫州領域であること、且つ、四年半前に袁術を廬江まで敗走させたのも曹操だったこと。
ましてや正当な天子を有する曹操が、勝手に皇帝尊称をした袁術の行動を見過ごすわけがない。
―――― さて、しかし。
ここで陳国の騒動を語る周瑜の芯の関心事は、そこであるか……。
珖明は匙を置くと、
「袁術が再び曹操と戦をするならば、憐れですが袁術に将来はありません。第一に、貴兄が見限った男です」
周瑜のまずは欲しいだろう答えを、あっさり言ってのけた。
周瑜はわずかに左右眉を歪めた。杯の酒をひと口含む。
「もの言いに遠慮がないな、そなたは」
周氏にとって、袁氏は祖先時より大恩ある氏である。
故に周瑜もこれまで袁術を主として立ててきたし、漢を尊重する親友の孫策も、同様の心得を持って袁術には接し続けていた。
しかれど事ここに至り、血胤で補填出来ないほどの愚行を繰り返す袁術を、孫策も周瑜も見限るしかなくなったのである。
忠誠心の濃い質の周瑜からすれば、袁氏への反意を固めるのに、相応の思い切りを要したのは事実。
なれど大局を観たとき、もはや袁術は、時代の邪魔分子と言わざるを得なかった。
「まあ……的確な見解だ」
珖明からの最後のひと押しを得た周瑜は、袁術話題を終わらせて思考を次に進める。
「そなたならわかっているだろうが、現状下での最大勢力は、天子を擁している曹操ではない」
河北一帯を牛耳る大勢力、袁紹。袁術とは従兄弟関係の男だ。
またここにも袁氏が出てくるのだから、漢朝でどれだけ幅を利かせてきた家柄なのかがわかる。
酒注ぎの侍女に注がせた酒盃の縁を、周瑜は舌で舐めた。
「袁紹と曹操。お互いそろそろ相手を排除せねばと、本気で考え始めている頃だ」
その二大勢力者は、遠からず真っ向勝負の時を迎えるだろう。
ただし、兵力としては圧倒的に袁紹優勢。返して言えば曹操は弱小ゆえに、天子を囲う策を弄したのである。
そこにあたり、周瑜が見極めねばならぬ最重要点はひとつ。
〝 二者の火蓋が切られた場合の勝者が、孫策にとって未来の最大の敵となる。それはどちらか〟
「二者の思惑はともあれ、あそこまで武力差が明白では、勝算の薄い曹操としてはおいそれと踏ん切れまい。敗れれば一族郎党死滅だからな」
「……そうですね」
珖明の簡易な返し。これ以上は聴き相手に徹しようとでもする態度だ。
そうされてはつまらんとばかり、周瑜は戯言気味な口振りで試みた。
「仮にその勝敗を見立てたら、そなたはどう予測する?」
「……」
「やっぱり袁紹かな」
じっくりふた呼吸ほど置いてから、珖明は口を開いた。
「そのような大事、一書生でしかないわたしには何とも。……ただ」
切れ長の眸が、研ぎたての刃の如き輝きを発する。
「所領支配権と勢力とは違う。戦は別次元要素で成されるもの。袁紹は所詮、旧時代の人物。曹操の敵にはなれない」
「……!」
周瑜は酒盃を持ったまま半口を開けた。
袁紹が敗れると言い切ったのか。兵力も圧倒的に劣り、卑賤な宦官家系出身者である、あの曹操に……?
「時代にそぐわぬ者が消えて行くのは、極めて自然の道理です」
短い念押しで、珖明は締めくくる。
「……」
周瑜は、含んでいた酒の残りを舌先で転がした。
何故であろう。珖明の発言はあくまで個人見解でしかないというのに、聞かされる側に対し、無条件な説得力を持つ。
「ずいぶんと曹操を評価っているんだな」
生ぬるい酒をごくり喉に通し、眉目をキリ、と上げる。
「それなら孫侯はどうだ。我ら江東が袁紹と対峙したとしたら……勝てるか?」
「……」
珖明は鼻から小さく籠った息を吐いた。
「袁紹など、すでに貴兄の将来図には存在していないのではありませんか、周公瑾様。あなたが存在を最も注視しているのは」
針の眼光が周瑜を刺す。
「曹操、ただひとり」
言が放たれた直後、一箭の風が、ふたりの間を翔け抜けた。
<次回〜 第70話「異郷の琴夜〈3〉」>
【用語説明】
◆蔡邕:後漢末期の政治家・儒者・書家。琴の名士としても知られる。
◆董卓:朝廷権力を私物化した後漢末期最悪の暴君。
◆呂布:三国時代随一の猛将として恐れられる。董卓の養子となりながら、董卓を暗殺した。
◆相:国(藩国)の長官。職務は郡太守と同。相とは別に王(もしくは公)がいる。
◆駱俊:陳愍王劉寵に仕えた陳国の相。万民に慈悲をもって接し、その身の安全を保障した。
◆袁紹:冀州牧。名門袁氏一族の総帥。後漢末期の戦乱世の最大勢力者。
◆宦官:君主の後宮に仕えるために、血筋の混乱を防ぐ目的で去勢された男性。




