09話 セレーノ峡谷
フランたちは資料に目を通しながら、しばらく馬車に揺られていた。
山肌を削って造った新道を進んでいくと、やがて開けた景色が見えてきた。
「わあ……」
山の斜面を埋め尽くすブドウ畑に、フランは思わず声が漏れた。
葉の間から覗くブドウは、品種の違いだろうか、まだ青いものもあれば熟して紫に色づいたものもある。
畑の間を縫うように道が走り、荷車が行き来していた。
これほどの土地から酒が造られるのなら、税収が10倍になったという話も頷ける。
馬車は峡谷の入口にある関所に到着した。
門番は馬車を止めると、全員降りるように告げた。荷馬車改めと呼ばれるものだった。
リースは窓越しに身分証を提示し、来訪目的を述べた。
中央の役人であれば荷馬車改めは不要となっている。門番は「失礼した」とだけ言うと、通行を許可した。
関所を抜けた途端、馬車の走る音が変わった。
ゴトゴトと響いていた車輪の音が、まるで宙に浮いているかのように静かになった。
窓から覗くと、道には大理石が隙間なく敷かれ、ゴミはもちろん石ころひとつ落ちていなかった。
「ずいぶんときれいな道ですね」
フランが感心していると、御者台に座っているマルが振り返った。
「この辺りはヴェルデ家が整備してきた道だそうだ」
リースが資料から顔を上げた。
「新道が開通する前から、この道を通って中央とかにワインを運んでいたみたいね。それもあってヴェルデ家は、自分たちが峡谷を発展させたと思っている節があるの」
「でも、ワインを作る人たちがいなければ、そもそも運ぶもの自体ありませんよね」
フランが言うと、リースは少しだけ口元を緩めた。
「まあね、だから醸造家を援助してきたアマロ家にも言い分がある。さて、どちらの主張が正しいと思う?」
「えっ。もう決めるんですか?」
戸惑うフランに、リースはお茶目な表情を浮かべた。
「冗談よ。新人にそんな判断力があるとは思ってないし」
フランはムッとした。
からかわないでください、そう抗議しようとしたその時だった。
ガタンッ!
「きゃっ!」
馬車が大きく跳ねた。体が座席から浮き、フランは慌ててリースをつかんだ。
ガタンッ!!
さらに跳ねた。今度は車体が左右に大きく揺れた。
慌てて窓の外を見ると、大理石などどこにもなく、深い轍と水たまりが眼下に広がっていた。
「こ、これは一体!?」
「空白の千歩よ」リースは何事もなかったように資料を拾い直した。「それより手、離してちょうだい」
「空白の……千歩?」
「事前資料をちゃんと読みなさい。しばらく悪路が続くって書いてあったじゃない」
馬車が轍を乗り上げた。フランは今度こそ手すりにしがみついた。
「それにしてもひどすぎませんか!?」
「さっきの道はヴェルデ家が整備したところだから。もう少しすれば、また平らな道に戻るわよ」
窓の外には、深い轍と大きな水たまりが点々と続いていた。
馬車が進むたびに、車輪が泥を跳ね上げる音がする。
「……千歩くらいなら、早く直しちゃえばいいのに」
フランがそう毒づくと、「誰が直すの?」とリースが尋ねた。
「そ、それはヴェルデ家じゃないでしょうか。ヴェルデ家が整備している道の途中にあるんですよね?」
そう言ったものの、フランはすでに疑問が生じていた。
ヴェルデ家が整備してきた道なら、ここまで酷い有様になっていないはずだ。
「……もしかして、アマロ家とヴェルデ家、どちらが直すか決まっていないんですか?」
リースはそれには答えず、ニヤリと笑いながら資料に目を落とした。
また馬車が跳ねた。
リースは涼しい顔で資料を読んでいるが、体重の軽いフランはピンボールのようにあっちこっちに飛ばされてしまう。
どうにか手すりにしがみつきながら窓の外を見ていると、その先に荷馬車が道の真ん中で傾いていた。
車輪が折れているらしい。たくさんのワイン樽が荷台から転げ落ち、衝撃で割れてしまっていた。
深紅の酒が泥水に混じって流れていた。
馬車を止め、御者台からマルが降りた。
ぬかるんだ道で転ばないよう、大柄な体を支えるように、まず片足を地面につけ、足場を確かめてからもう片方の足を下ろす。それからそっと馬の首を撫でた。
「すこし休んでいてくれよ」
馬にそう声をかけてから、荷馬車へと向かう。
そして、道に散らばった樽の破片を、マルは黙って拾い始めた。
「何してるんだい、あんた」
荷馬車の持ち主らしき女性が、疑わしげに声をかけた。
大きな体に髭面のマルは、黙って立っていると山賊にしか見えない。
おおかたどさくさに紛れてワイン樽を盗もうとしているコソ泥に見えたのだろう。
「あの、破片を片づけようかと思って。馬が踏んだら危ないですし」
「片づけって……。あんた、山賊じゃないのかい?」
よく間違われますが、と前置いて、マルは名刺を差し出した。
「国土統一省で主任をしています。マル・ベックと申します」
「お国の役人様が、こんな小汚いゴミを拾ってくれるのかい」
「ダメでしょうか」
マルは当たり前のことを聞くようにに答えた。
女性は「ダメじゃないけど……」と口ごもっている。
「車輪も見てみましょう。もしかしたら直せるかもしれません」
女性はまだ怪訝な表情を浮かべていたが、マルが車軸を調べ始めると、やがて納得したようにため息をついた。
「あんた優しいんだね。疑ってしまって悪かったよ」
「いえ」と短く言って、マルは荷馬車の下にもぐる。
フランもこれまで、彼のことを近づきにくい人だと思っていた。
牛のように大きな体で、見た目も正直なところ野獣に近い。
人は見かけによらないなと思いながら、フランはマルを手伝うために馬車を降りた。




