水族館デート
普段、どこに行くにもショルダーバッグひとつの彼女にしては、随分と大荷物だったのが意外だった。それと同時に、一泊とはいえ泊まりとなると女性は大変なんだな、と妙に納得したものだ。
ホテルに荷物を置いて隣接する水族館へ行くという時にも、その大きなナイロンバッグを手にしたことは不思議だったが、満面の笑みで早く行こうと急かされるまま目的地へと向かった。
「コインロッカー、向こうにあるけど」
「大丈夫。それより急ごう、いい席残ってるかなあ」
わくわくとした表情を隠しもせず、いつもと違って俺の腕を引っ張って早足で歩く千耶子。
そんなに楽しみにされていると思うと、ようやく連れてこれたという気持ちが半分と、待たせたのだろうという気持ちが半分。
ショーの開始までは、あと三十分ほど。シャチが多彩なパフォーマンスをダイナミックに繰り広げる、ここのメインとなるアトラクションだ。ほとんどの客がこれを目当てにしていると言って過言でないだろう。
会場となる場所に着いてみると、観覧席は既に八割ほど埋まっていた。見渡して、ああやっぱりとなった。
「空いてるのは前のほうばっかりだな。どうする、次の回にするか?」
「なんで?」
「なんでって、かなり濡れるぞ」
きょとん、とする千耶子は知らないのだろう。
体長五メートル、2トンを超えるシャチが繰りだす豪快きわまるジャンプや尾びれのしぶきで、観客席はプールの海水でずぶ濡れになるのだ。
特に前の席になるほど被害はひどく、まるで海に潜ったようになるのは必至。それを楽しみにしている猛者のほかは、水がかかる場所を避けて、客席は上の方から埋まっていく。
今、目の前でも専用の簡易ポンチョが飛ぶように売れ、どれほど水を浴びる羽目になるのかを係員がくどいほどアナウンスして回っている。
あの後は忙しくてお互いゆっくり時間も取れず、旅行の打ち合わせもざっくりだった。水族館に似合いのラフな服装とはいえ靴も綺麗なものだし、こういう姿の女性は濡れるのを嫌がるのが普通だろう。
「むしろ、水被りたいけど?」
「え?」
「あ、正人さんは濡れるの嫌?」
「いや、俺は構わないが」
「よかった! ほら、真ん前のいいところ空いてる! あそこにしようっ」
ご機嫌で先に観客席スタンドの階段を降りた千耶子が『特等席』で手を振る。
……分かってんのかな、本当にびしょ濡れになるのだが。
真夏でもなく、海風は強い。近くにいた係員も心配顔で確認をしているようだが、それにもこくこくと頷いている。
来園早々に濡れ鼠か。
まあ一度ホテルに戻ればいいか、と腹を決めて階段を降りるうちに、なんだか自分まで楽しくなってきたのだった。
周囲を見渡せば、持参のレインウェアをガッチリと上下で着込んだ人や、いっそ濡れるつもりだろうトレーニング用のTシャツにショートパンツでスタンバっている人。水中ゴーグルをつけてはしゃいでいる子供の姿もある。
水濡れの心配もなく呑気に開始を待っているのは観客席のかなり上段にいる人たちくらいだ。
席にたどり着くと、千耶子はその大きなカバンからぽんぽんと中身を取り出し、こちらに渡す。
「はい、正人さんの。ジャケット脱いでこれ着て、靴はこっちの袋に入れてね。カメラとスマホはこのジッパーの付いてるのに」
「これ……?」
「絶対、ここで売ってるポンチョだと正人さんには小さいと思ったんだ。あ、下もあるけど一応ズボンまくって、それと裸足ね!」
わくわくするね、と言いながら自分用のレインコートに着替え、さっさと脱いだ靴も鞄もビニール袋に入れていく。
言われるがまま準備を整えてようやく気付く。彼女のあの大荷物は全てこれのためだった。雨具や防水袋や何やが入っていたカバンに靴その他を入れ、さらに大きなビニール袋を二重にきっちりと包む。
「これでよしっと!」
やりきった感で満足そうにする千耶子がやたらに可愛い。
そんな不躾に眺めていた視線を感じたのだろう、振り向くと急に顔を赤くした。
「っあ、もしかして私、はしゃぎすぎ? えっと、あの、引いてない? お姉ちゃんに話聞いて、これくらいしてもいいかなって思ったんだけど……」
「引いてない。それより、千耶子のほうが濡れるの嫌がると思ってたから驚いてはいるけど」
「こういうのは、いっそ楽しまなきゃ!」
きらきらしい笑顔はプールの水の反射だろうか。目を細めているうちに客席はとうとう満員御礼になり、自分たちの近くも同じような出で立ちの観客で埋め尽くされた。
そわそわと開始を待ちながら、前を向いたままで千耶子が呟く。
「私ね、小さい頃怖がりだったんだ。いっつも後ろで見るばっかりで、どんどん前に行ってすごく楽しそうに遊ぶお姉ちゃんや友達を見るばっかりだったから。今になって、もったいなかったなあって」
「……俺も、似たようなもんだったな」
本当は自分も同じようにして遊びたかったと、ぽつんと口にした千耶子につい、自分を重ねてしまった。
――家族でどこかに行った記憶はない。
物心ついた時から既に両親の仲は険悪だった。たまに見かねた祖父母が連れ出してはくれたが、当時から店をやっていたため遠出は出来ず、せいぜい近所の公園かショッピングモールくらい。
それに文句を言うほど空気が読めない子どもでもなかった。
休みのたびに、どこそこへ行ったと報告するクラスメイトたち。その満足そうな口ぶりに、表に出さずとも自分の胸は確かにじわりと黒く染まっていたはずだ。そのことにすら、目を瞑っていた。
俺の一言に少し驚いたようにこちらを見た彼女の瞳に、次の瞬間、柔らかな色が浮かぶ。
「いっぱい、遊ぼう」
これから、一緒に。
そう言って膝の上の手の甲に重なる小さい手――握り返したその時、アナウンスが止み軽快なファンファーレが鳴り響いた。
観客たちの期待に満ちた静かなどよめきが高まる。プールサイドには、にこやかに笛を咥えるウェットスーツのトレーナーたち。
慌ててフードを被ったと同時に、気配もなしにすぐ目の前で白と黒の巨体が高く跳ねる。
逆光にきらめく巨躯がスチルのように止まって見えて、眩しさに目を凝らした。
地響きのような音を立てる着水、痛いほどの勢いで落ちてくる海水。
悲鳴のような歓声がそこかしこで上がり、最高の思い出になる二十分間のショーが幕を開けた。
(初出:2018/4/2 web拍手より微修正再録)
フォルダを整理していたら出てきましたので、とても久しぶりに更新しました。
お楽しみいただけたら何よりです。