続く今日を願わくば(千果)
目が覚めると、部屋は薄暗くなっていた。
部屋の位置のせいで、午後二時を過ぎるとこの客間は明かりが入らなくなるのだ。つまりはその時刻を過ぎているということだろう。それが確認できるから今日は寝室ではなくここに寝ることにしていた。ただひたすら眠って一日を過ごす時、時間は私を素通りする。
試しに身体を起こす。痛みが頭を駆け抜けて、呻き声が漏れた。
「大丈夫っ!?」
襖が開いて、男性の声が叫ぶように言う。私が振り返るよりも先に回り込んできたのは、林田さんだった。
「頭? 頭が痛い? まだ寝てた方がいいんじゃないかな、無理したら悪化するよ」
「……そっか、来てくれていたんでしたね。おかゆまで作ってもらって、ありがとうございました」
記憶を辿りそう言うと、私を心配して慌てた表情をしていた彼が、ふっと切なげに微笑んだ。
「俺がしたくてしただけっスから。それよりもみのりの料理を楽しみにしてる皆のために、早く治しましょうよ」
どうしてそんな顔をするのだろう。励ましてくれているのに、哀しそうで、寂しそうで。
私はどうしてこんな気持ちになっているのだろう。励ましてくれただけなのに、哀しくて、寂しくて。
眠る前までの記憶が、どうも曖昧だ。彼が来てくれたことや優しいおかゆの味、恥ずかしげもなく全て食べさせてもらったことも覚えているけれど、他に何か忘れてしまっている時間があるような気がする。きっと何かが、特別な何かがあったのだと思う。でなければこんな気持ちにはならないし、彼もこんな顔をしないだろう。
でも聞いてしまうのは、難しかった。
聞こうと思えば簡単かもしれないけれど、もっと彼を哀しませるような気もして、言葉が出なかった。
風邪なんて引かなければ。そうすれば今日はもっと良い日にできたのに。私の、馬鹿。
*****
風邪の原因は分かっていた。夜更かしと、布団に入らないまま薄着で眠ってしまったからだ。
今日、彼と会う約束をして、久々に緊張していた。それは彼を好きだと自覚してから初めてふたりで出掛けるからというのが大きかったけれど、わずかな部分で違うものが顔をもたげていた。
本当に彼が選ぶのは私でいいのだろうか。そんな、申し訳なさが。
直接言葉にされた訳でもなく、たった一度ふたりで食事しただけであとは店の女将と客の間柄でしかないから、私に見た幻想で一緒にいてくれているのではないか、と考えていた。
そんなのは違うはずで、違ってほしいと願いながら。付いて行かない心を持て余して、焦燥感ばかりが募っていった。
全部、リセットしたい。恋に臆病になっている自分も、後付けのように好きになった後ろめたさも。何もかもリセットして、ただ好きな気持ちから始められたら。
考え付いたリセット方法は、泣くことだった。
何だっていい。深く考えなくても単純な感情で涙が流せるなら。そうすれば新たな回路で愛情まで届きそうな気がした。
コウと菅野さんに相談すると、突然のことに微妙な反応を返されながらも、良い小説を紹介してもらった。教えてもらった古本屋でそれはすぐに見つかった。感じのいい表紙で、状態も綺麗でツイていたと思う。早く読んでおこうと思っていたのに時間が作れず、昨日になってようやく読み始められた。
あまり長い作品でもないけれど、読み慣れていない私では翌日までには読み切れないだろうと半ば諦めかけていた。それなのに作者の力か、それとも物語が私に合っていたのか、これまででは考えられない速さで読み進めていった。
何度となく零れた涙は、何の涙だっただろう。悲しみも、不安も、喜びも、愛しさも。訪れる感情の波が全て、涙に変わったのだと思う。こんなこと、あっただろうか。
そうして最後に残ったのは、満たされた心地。本を閉じて、彼の顔を思い浮かべて、明日会えるのだと思うだけで幸福感が湧き出てくる。不思議だけれど欠けていた部分が手に入ったような気さえした。
そうしてそのまま、眠りに就いた。
*****
朝目が覚めて、全身の息苦しさと重い頭痛に、自分の愚かさを恥じた。あんなに充実した気持ちで眠ったのに、体調を崩すなんて最悪だと。
それでも、少しでも良くならないかバレない方法はないかと考えたけれど、結局彼に移るリスクを思うと、出掛けることはできなかった。
それなのに彼の方から来てしまったのだから、どうしようもないけれど。
……本当は、嬉しかった。わざわざ会いに来てくれたことが、嬉しくて堪らなかった。
けれど今、また振り出しに戻ったみたいだ。彼の表情が思わしくない理由に、私は辿り着けない。
「喉、乾いてないです? 飲み物持ってきますよ」
「私も行きます」
「駄目。身体冷えちゃうから。ここにいてください」
どきりと、心が何かに反応する。またひとりになって寂しいのとは別の何かに。けれど考えようとすると熱が上がるようで、まだ重い頭に思考が止まった。
彼はすぐに戻って来た。待たされたマグカップからは、湯気と共に微かな酸味が立ち上っている。
「スポーツドリンクを温めて飲むといいんスよ。林田家ではいつもこれで治してて。絶対効くからさ」
「ありがとう」
言って口を付ける。
温めて飲むなんて初めてだけれど、悪くない。猫舌なのを気遣ってか、飲みやすい温度にしてくれていて、優しさが安堵をくれる。
「え、どうして泣くの?」
「泣く……?」
熱で火照った頬は鈍く、自分の涙さえ気付かなかった。揺れる視界の向こうで、彼がおろおろと動揺している。
「嬉しいからかな」
「嬉しい?」
「温かいから安心できて。独りじゃなくて、傍にいてくれる人がいて。それがあなただから、嬉しい」
上手く言葉が出なくて、伝わったのかもよく分からない。でもとても素直な気持ちを伝えた。身体は苦しいのに、こんなにも穏やかでいられるのは、やはり彼がいてくれるからなのだろう。
「……それもまた、忘れるの?」
彼の言葉の意味が理解できなくて、何? と問う。でもそれは彼の独り言だったらしい。
「いや、何でもないっス。それ飲んだらもう少し寝てください」
「……嫌だ」
「いや、でもしっかり寝ておかないと」
「そうじゃなくて、何かがこの辺りで引っかかっていて」
胸を抑えても何も変わらない。彼が話す度に、これでいいと思ったりこれじゃ嫌だと思ったり。正体が分からないから気持ちが悪い。これからずっとそう思いながら彼と接するのかと思うと、風邪よりもずっと苦しく思えた。
彼は心配してくれている。風邪のせいだと思っているのだろう。でもそうじゃない。
その感覚を例えるなら……そうだ、嫉妬に似ている気がする。
でもどうして? こんなにも近くにいてくれているのに、嫉妬だなんて。これ以上何を欲しがれるというの?
その時、額がひんやりとした感触に包まれた。
「熱は、さっきほど高くはないな。どうしたんだろ」
彼が額に手を当てて、体温を測っている。離れようとする手を思わず掴んだ。
「え、どうして」
「手は、手は熱くない?」
自分にこんな甘えたな性格が潜んでいたなんて知らなかった。
下手な言い訳で触れたがって、彼を困らせている。優しいから、熱で力の入らない私の手を拒みもせずに、質問に答えようと手を握り返してくれたりするんだ。
熱が下がったらもうこんなことしないから、お願い、今だけこのまま。だから、幻滅しないで。
「ちょっと熱いかな、でもコップを持ってたからかも。でも指先が冷たくなってる」
そう言って指先を揉むように触れる。くすぐったい感触に小さく息が漏れた。
「くすぐったい?」
「うん」
「千果さんの手、俺より小さいね。身長は俺より大きいのに、やっぱり女の子なんだなぁ」
女の子。私の方が歳上で、背も大きくて、可愛げなんてろくにないのに。それでもそんな風に言ってくれるの?
不思議と先程までの苦しさはなく、太陽に照らされるように胸が暖かかった。
私の視線に気が付いて、彼は慌てたように目を泳がせた。
「すみません、俺タメ口で話してましたね」
「あ、それ……」
彼が口調を改めた途端に舞い戻る息苦しさに、その正体を知る。
嫉妬。まるで友達か、或いは恋人のように話してもらえる自分に、嫉妬していた。
「そのままで、いい」
「でも」
「ううん、そのままが、いい」
熱に乗じてする強引なお願いに、何故か心が躍っている。関係を変えようと踏み出す自分は好きだ。あの日、二度目のデートを取りつけたあの時のように。
「……今日だけでいいから」
困った顔をする彼に、熱のせいと理由付けて強請る。今日だけの夢でもいい、けれどその夢が醒めなければいい。静かな部屋で、自分の小さな息と心臓の音が響く。誰かの存在を願ってこんなにも狂おしく胸を打つことなんて、ああ、初めてだ。
彼が目を細めて、唇を引く。顔を俯かせて、それから奪うように手を強く握られた。
「今日だけなんて、嫌だ」
その言葉に、手に落としていた視線を引き戻される。それは、つまり。
「熱が高かった間、口調も気遣わずに話してくれたのが嬉しかった。気にする余裕がなかっただけだって分かってるけど、俺に安心してくれてるんだとか考えだしたら、今日だけはって、忘れてくれてもいいからって。
……そう思ったけど」
彼がいつものような笑顔を見せる。いや、いつもより大人で、全てを包むような慈しみと逃れられない鋭さが微笑みの向こうに見えた。
「千果さんがこの今日を求めてくれたこと、今日の俺を願ってくれたこと。絶対後悔させないから」
揺るぎない瞳が私を映して、心に刻みつけることに言葉をくれる。それは少しだけ、忘れられることに怯えているようにも思えた。
彼は私に色んなことを教えてくれる。臆せず進むことの目映さや、人を想うことの温もり。そして、弱さから生まれる真の強さを。
「ほら、もう眠って。晩御飯できたら起こすから」
「でも、もうちょっとだけ」
「だーめ」
折角近付けたのに。手が離れて、思わぬ空気の冷たさに身震いする。布団に寝かされ寒さはなくなっても、温められた手が急速に冷え固まるような気がした。寂しさに恨めしく視線を渡せば、彼は変わらず笑顔のまま、広がる髪を整えてくれた。
「元気になったら、伝えたいことがあるんだ」
囁くように呟いて、だから早く治してね、とさらりと頬を撫でた。
襖が閉まり、ひとりになる。でも、独りじゃないから。
火照った頬を布団で隠して、焼き付く彼の顔を瞼に見ながら、そっと意識を手放した。
***
目を開けると、そこは夕暮れの美しい海辺の公園だった。
空も海も道も、自分の掌もオレンジ色に染まって、境が分からなくなるような光景。美しいのに取り残されているようで、これからどうすればいいのか戸惑ってしまう。
景色の中にたった一つ、浮かび上がるものがある。誰かの後ろ姿だ。
その姿を私は知っているような気がする。見つけた瞬間、何もかも上手くいくことが保証されたような心持ちになったから。もう安心、この人がいるなら私は大丈夫、と。
足を進めると、近付いていく。当たり前のことが、まるで奇跡のように胸が高鳴って仕方がない。
すぐ傍まで来ると、彼が振り返った。性別も曖昧な形だけの姿を、私は確かに彼だと思った。
辺りを暗い靄が立ち込めて、やはり姿は不鮮明に、そこにいることだけを伝えている。
何かを言わなければいけないのかもしれない。
ううん、違う。待っているんだ。彼の言葉を私は待たなくてはいけないんだ。
耳をすますと、靄の中から声らしきものが聞こえてくる。だけれどそれも遥か遠くのように聞き取れない。
じっと、聞こえるまで待つ。彼の伝えたい言葉を聞き漏らさないように。
そうしていると少しずつ、靄が薄らいでいく。
声は上手く聞こえないまま、柔らかそうな茶色い髪が風に揺れる。
風に乗った声が、断片的に私の耳まで届く。
教えて、あなたの気持ちを――。
***
カーテンの隙間から太陽の光が漏れていた。照らされた指先は、何事もなく滑らかに動いた。
起き上がる時の頭痛はまだ少しあるけれど、頭の中はとても軽くなっていた。もう熱はほとんどないだろう。
立ち上がり襖を開けると、テーブルに突っ伏している林田さんが正面に見えた。
あどけない表情で眠っている。真っ直ぐな私の髪とは違う柔らかそうなそれに触れてみた。見た目通り優しい感触で、犬を撫でているようだ。
夢の中のその人は、間違いなく彼だ。だって夢の中で感じた愛おしさを、今も感じている。
最後に薄っすらと、でも確実に伝わった言葉を胸に仕舞う。
いつかその言葉が聞けたらいい。その時は私も、同じ言葉を返したい。
あの夢が正夢になるような予感がした。それはただの願いかもしれないけれど、ささやかな祈りに変えて。
彼は王子様じゃない。私はシンデレラじゃない。だけどこうして出会えた。それはきっと、とてつもない奇跡だ。
彼がゆっくりと瞼を開く。私を見つけた途端、嬉しそうに、幸せそうに微笑んだ。
「おはよ、千果さん」
「おはよう、徹司くん」
ああ、私は彼をこんなにも――。




