熱い頬に誓いを(徹司)
インターホンを前に右往左往すること数分。一番常識的な行動を考え抜いた結果、やっぱりインターホンを鳴らすことにした。
電子音が鳴り止んで数分。とっくに接続は切れていて、だけど居ない筈がない。
やがて、玄関が開く音がする。門扉越しに伺うと、マスク姿の千果さんが真冬かと思うような恰好で出てきた。
「どちら様……え」
「千果さん、俺に看病させてください」
買い物袋を掲げると、心底嫌そうな顔をしつつも招き入れてくれた。初めてのお宅訪問は千果さんの看病のためであって、何一つ疚しいことはない。
「来ないでいい、って言いましたよね?」
千果さんの後を追ってダイニングキッチンに入る。予想通り、室内は綺麗に整えられていた。日頃から手が行き届いていることは明らかで、流石だと思う。
「でも風邪の時って一人じゃ何かと不便じゃないスか」
「移るかもしれないから来ないでってメールしたのに」
「折角のデー、いやいや、会う約束の日だった訳だし、俺はどんな形でも会いたかったんで」
そう、今日は千果さんから誘ってもらった……デートの日だった。
夏休みを終えて、会わなかった期間を寂しかったと言ってくれた千果さん。それだけでも天にも昇るような気持ちなのに、今日の予定は千果さんが立ててくれていたんだ。
だけど、早起きして用意を始めようとしていた頃に突然入ったメール。熱があると知らされて、そりゃあデートができなくてちょっとくらいがっかりはしたけど、それ以上に心配の気持ちが強かった。看病します、と返したけど断られて、でもそれを無視して来てしまった。
「こんな格好見られるなんて、女として恥ずかしすぎ……」
「そんなことないスよ! 病人はそんなこと気にせず寝てください。おかゆでも作りますよ」
服装を気にする様子が可愛すぎる。もこもこに着ぶくれした姿も鼻声も可愛いけど、そんな話は元気になってからにしよう。無心だ、無心で看病に専念するんだ。俺!
隣の和室で寝ていたというから、そちらに送り出す。けれど、千果さんが立ち止まって振り返った。
「もしかして心配? これでも一人暮らし長いんで、それなりに料理できるんスよ」
小さく首を振るから、そのことではないらしい。それなら何だ?
「……怒ってない?」
「え、怒ってるように見える?」
「見えないけど、わざわざ時間作ってもらったのに、こんな形になって」
重い咳をひとつして、悲しそうな目で俺を見る。メールをくれた時、そんなにも申し訳なく思ってくれていたんだな。熱で弱っているせいが大きいのかもしれないけど、そういうのは千果さんを好きな俺を喜ばせるだけだって分かってないからタチが悪い。思わず笑みが零れた。
「怒ってたらここに来てない。寧ろ、来ないでって言われたのに会いたいからって押しかけた俺を、怒ったっていいんスよ?」
「ううん、来てくれてありがとう。……私も、会いたかったから」
遠ざかりながら呟いた最後の一音まで、しっかりと聞き取れた。
嬉しさのあまり数分、駆け出したくなる気持ちを必死に抑えたのは言うまでもない。
**********
控えめに襖を叩いて開けると、物音に目を覚ましたらしく、ゆっくり開いた瞼から綺麗な黒目が俺を捉えた。
「おかゆ、できたけど食べられそう?」
「うん」
「こっちに持って来ようか?」
「大丈夫」
起き上がるのに手を貸して、そのまま手を引いてダイニングに連れていく。細い手の熱さに熱の高さを知った。
いつもは丁寧な口調の千果さんがぽつりぽつりと言葉を落とすのに便乗して、今日だけとタメ口で話し掛けてみる。気付いていないのか、それに関して反応はない。でもこうして自然に話していると、恋人になった時のことを予感させて、胸が高鳴る。初めて触れた手の柔らかさも、忘れない内にもう一度触れられたらと思う。
「どうぞ」
お椀におかゆを取って、スプーンと一緒に出す。ありがと、の言い方がまだ寝惚けているみたいで可愛すぎる。
だけど一向に手を伸ばそうとしない。卵がゆに梅干しを乗せただけだし、嫌いなものはないと聞いていたから問題ない筈なのに。
向かいに座った俺がじっと見ているのに気が付いたのか、恥ずかしそうに理由を教えてくれた。
「猫舌なの」
ああもう、可愛いなあ!
「じゃあ、冷ましてあげる」
ふーふーと息を吹きかけて冷ましてやる。
ふと子供の頃に拾った子猫のことを思い出した。今の千果さんはあの時の子猫みたいだ。用意する俺の手を見つめて、大人しく待っている。俺は小さい時から猫一筋だ。
色々と上手くいって調子に乗っていることは認める。だから、本当に今日だけ、もう少し調子に乗らせて。
隣の椅子に移動して、スプーンを差し出す。
「はい、あーん」
何の躊躇もなく、千果さんはそれに応えた。
これ、絶対熱のせいだよな? 治ったらみんな忘れてるパターンだろうなあ。俺が覚えてるし忘れてくれてもいいけど、あ、でも元気になってから恥ずかしそうにする千果さんも見たいかも。それだったら自然に口調もそのままでって流れになったりして。いや待てよ、恥ずかしがってくれなかったらどうすんだ? もし何事もなかったように接されたら俺……。
腕に触れられている感触がして、顔を上げると千果さんと目が合った。
「まだ?」
「あ、あぁ、ごめん。あーん……美味しい?」
「うん、おいしい」
もう、何でもいいや。今後のことはその時考えれば。とりあえず今はこの可愛すぎる千果さんを独り占めできている幸運に浸りつつ、ひとつの動作も見逃さないように気を配っていよう。
……今のは、俺の中では拗ねたってことにしときますからね、千果さん。
薬を飲ませて、ふらつく身体を支えながら和室へと連れて行く。どんなに可愛くても病人を疲れさせては元も子もないし、俺の理性がサヨナラする前に距離を取っておかないと。
とはいえ。好きな女性を布団に寝かせるという行為は、それだけで結構刺激的だった。
無駄に疲れた俺は息を吐き出すと、洗い物でもしようかと立ち上がる。だけど、呼び止められた。
「あの」
「どうしたの?」
「もう、帰る?」
まだ帰る気はなかったけど、そんな寂しそうな顔をされて帰れる奴なんて居る訳がない。
「洗い物しに行くだけだよ」
「じゃ、もう少しここに居て」
いつもは大人の女性といった千果さんも、意外と甘えん坊なんだな。立花さんはこういう千果さんも知っているんだろう。仕方ないけど少し悔しいと思う。俺だけに、俺だから甘えてくれているならいいのに。
でもそれも、俺次第なんだと思う。そうなってもらえるように、千果さんにそのくらい好きだと思ってもらえるように頑張ろう。
枕元に座って、布団をしっかりと掛け直した。
「うん、居るよ。だから安心して寝て」
「眠くない、から、声聞かせて」
何か、心配になってきた。誰にでもこんなこと言っているんじゃないかって。違うと信じたいけど、焦りばかり大きくなる。頑張ろうと思ったばかりだっていうのに。
声を聞かせてと言われても、何を言ったらいいのやら。取り留めのない話題を絞り出した。
「風邪、よく引くの?」
「十年振りくらい」
「へぇ、ちゃんと管理してたんだ」
「風邪引くと、味覚鈍るから」
「久し振りの熱って結構つらいよね」
額に触れるとその熱さが直接掌を焼くように思えた。やっぱり相当熱が高いらしい、タオルでも濡らして置いてやりたいけど、ここに居てほしいという意思を今は尊重しよう。
「冷たい」
「ちょっとは気持ちいい?」
「気持ちいい」
俺の掌にすり寄る様子も子猫みたいだ。掌と甲をひっくり返しながら、額や頬に触れる。その度に目を細めて穏やかな息を吐くから、触れてもいいんだという気にさせられる。
踏み込み過ぎてはいけない。下手をすれば折角近付けた距離をまた一から、もしかしたらマイナスからのスタートになるかもしれない。あくまで紳士に節度をもった態度を示さないと。
……首を冷やすといいって聞くんですが、どうでしょう?
「ごめんなさい」
「へ?」
「今日の予定はまた、付き合ってくれる?」
「も、もちろん! 当然そのつもりだったよ」
心臓が壊れそうなくらいの速さで胸を打つ。
下心が隠しきれなかった自分が恨めしい。ある意味、今日ほど進展のある日なんてそうそうないんだから、満足しないといけないのに。病人を前に盛るな、俺!
「それにしても、どうしてこんなにひどい風邪引いたの?」
やっと残暑が弱まって秋らしくなってこようかという頃。それでもまだ朝晩は冷えるというほどでもないし、日頃から気を付けていたのなら、ここまで熱が上がってしまうのは何かあったのかと思えてしまう。
尋ねると、目を上げてすぐに逸らされた。そうしてから小さく、秘密、と答えた。
俺には言えないってこと? 可愛さに悶えるよりも、そっちの方が気になってしまった。我慢しきりの俺だって、拗ねてみたくもなる。
「俺には言えない?」
「言えない」
「どうしても?」
「……だって、恥ずかしいから」
恥ずかしいなら、俺に関することなのかもしれない。もしかして千果さん、遠足の日には熱を出すタイプだったりして。俺とのデートが楽しみで熱を出したとか。そうだとしたら、脈ありどころではないんだけど。
意地が悪いと思いながらも、熱のせいで素直な今なら答えてくれるんじゃないかと思って、流れた髪を撫でながら聞いてみる。
「今日、楽しみだったから?」
すると、小首を傾げられた。
「それもあるけど、これ以上は駄目。秘密」
「残念、元気になったら教えてくれる?」
「言いたくなったら」
「ハードル高いなぁ」
本当の理由は聞き出せなかったけど、今日が楽しみだったというのは認めてくれたから、良しとしよう。
予定が変わってしまったことを悪く思うのは、俺のことを気遣ってくれている以上に、千果さん本人が残念がっているからなんだろう。そう思うと、自信を持ってもいいかもしれない。勘違いしそうな出来事の全部が全部、間違いではないのかもしれない。尻込みせず、思い切ってみよう。ちゃんと好きだと伝えるために。
完全に落ちてしまいそうな瞼を何度も引き上げる。何とか起きていようとする姿が愛しくて、声をかけた。
「早く寝ないと良くならないよ」
「寝たら帰る?」
「千果さんがいいって言ってくれるなら、明日も休みだし、ずっと居るよ」
「うん、居て」
元気になったら説教だな。俺以外にそんなこと言っちゃ駄目です、って。言えるかは分からないけど。
「分かった。その代わりもう眠って。早く元気になって、俺とデートしよう」
「……うん」
返事と同時に、言葉の合間に吐かれた息は寝息に変わる。艶やかな髪にもう一度指を通すと、するすると解けて辺りに散らばった。額の熱は変わらず高い。
カウンター越しにしか話せなかった恋の始まりが、少しずつ変化して。
助手席に彼女が居たり、テーブルの向こうで食事をしていたり。こうして無防備に眠っている彼女の肌に、容易に触れられてしまうまでになった。
当然、これは怪我の功名――ちょっと違うけど――だと分かっているけど、高嶺の花で絶対に手は届かないと思っていた人がすぐ傍に居るのを実感する。
手を、伸ばしたくなる。触れたくなる。いつか、抱き締めたいと願う。
それまでは、互いに好きだと言えるようになるその時までは、どれほど先になっても待ち続けるから。
「だから、今日はご褒美、ちょうだい」
唇に触れた熱い頬の柔らかさに、この人を守ると強く誓った。




