第28話
…そう。そうよね。あなたの中では、そういう物語になっているのよね。私が、木戸部長と共謀して不正を働き、それに気づいた可哀想な畠中さんを、二人で寄ってたかって苦しめている。……すごいわ。完璧なストーリーじゃない」
彼女はゆっくりと立ち上がり、一歩、また一歩と俺ににじり寄る。俺は、その尋常ではない気配に、思わず後ずさった。
「教えてあげる。あなたは聞きたくもないでしょうけど、教えてあげるわ。あなたが、どれだけ愚かで、取り返しのつかないことをしたのか」
彼女の声は、氷のように冷たかった。
「あれは、罠だったのよ」
心臓が大きく跳ねた。
「罠……?」
「そう、罠よ。畠中さんが仕掛けた、完璧な、罠」
佐藤は俺の目の前に立ち止まると、その顔を覗き込むようにして続けた。
「彼女は、わざとミスを繰り返した。私が指摘せざるを得ない、巧妙なミスをね。共有フォルダのごく一部のデータだけを微妙に書き換える。提出レポートの最後のページの数字だけを意図的にずらす。どれも一見すればただのケアレスミス。でも、それが毎日、毎日、続ければどうなると思う?」
俺は、何も答えられなかった。口の中が、からからに渇いている。
「苛立つわよね。うんざりするわよね。だんだん、彼女に対する口調も厳しくなっていく。周りから見れば、私が一方的に彼女を責め立てているように見える。完璧な『パワハラの構図』の出来上がりよ」
佐藤の言葉が、俺の築き上げてきた物語の壁に、亀裂を入れていく。
「そして極めつけが、『イノベート・フォワード・アカデミー』の請求書よ」
彼女は吐き捨てるように言った。
「彼女は意図的に支払いコードを間違えて申請を上げてきた。あのシステムでは、コードが一つでも違うと、通常のルートではエラーが出て弾かれ、全てのシステムが止まる。でも、課長クラスの承認があれば例外処理として強制的に支払いを通すことができる」
頭の中で、何かが、音を立てて崩れ始めた。
「月末の締め、あなたに分かる? 何十、何百という請求書の束が回ってくる。私は最終承認者として、部下が一次チェックしたものを確認する。彼女の担当は、その一時チェックと、請求書をバッチ(束)にして私に回すこと。彼女は、回してくる束のうち、数枚のどうでもいい請求書にわざと小さな、でも確実に私の目に留まるミスを仕込んでおくの。時間ぎりぎりを狙って何度も何度もね。私はそれに気づかなかった。多くのミスと締め切りのプレッシャーに追われてね。システムを止めるわけにはいかない……それが、彼女の狙いだったのよ。彼女は、私が不正な支払いを承認したという、動かぬ証拠が欲しかった。そして、その証拠を匿名の投書で新聞社に送りつけたのよ」
匿名の、投書……。
「嘘だ……」
俺はかろうじて言葉を絞り出した。
「あなたが、木戸部長と……」
「だから!」
佐藤は再び声を荒げた。
「木戸部長は関係ない! あの人も私と同じ被害者よ! あの人は本当に畠中さんのことを心配していただけ! 彼女が何かおかしなことに巻き込まれているんじゃないかって、本気で!」
「じゃあ、七年前の事件は……」
俺は、最後の砦に望みをかけて問いかけた。
「田中さんのことは、どう説明するんですか! あなたが、木戸部長と一緒になって、彼を追い詰めたんだろう!」
その言葉を聞いた瞬間、佐藤の顔から全ての表情が抜け落ちた。彼女は心底不思議そうな顔で俺を見つめた。その瞳には怒りも悲しみも絶望すらなかった。ただ純粋な、理解不能なものを見るような戸惑いだけがあった。
「……田中さん? 七年前……?」
彼女は、小さく首を傾げた。
「何の話をしてるの?」
そして、決定的な最後の一撃を、静かに、しかし残酷なまでに、はっきりと俺に叩きつけた。
「私、七年前の事件なんて、何も知らない。だって、私がこの会社に転職してきたの、まだ三年と少し前だから」
時間が、止まった。
空調の音も、廊下から聞こえる微かなざわめきも、すべてが消え去った。
さんねんまえ。てんしょく。
その二つの単語が頭の中で何度も何度も飛び交う。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前に立つ佐藤の姿が遠くなる。彼女の言葉が、意味をなさない音の羅列となって、頭の中を反芻する。
……何かが、おかしい
……何かが、違う
脳裏に、これまでの光景が、猛烈なスピードで逆再生していく。
畠中の潤んだ瞳。遠野の涙。木戸の困惑した顔。そして、俺を見下すように、満足げに頷いた、あの廊下での畠中の表情。
あれは――同志への合図ではなかった。自分の計画通りに動く駒の働きぶりを満足げに確認する、マニピュレーターの冷酷な視線だったのか?
口元が震え、視線が泳ぐ。言葉を紡ごうとするたび、頭の中の論理の綻びが広がっていく。それでも必死に、最後の頼みの綱を握りしめるようにして声を震わせる。
「でも………、でも木戸部長がイノベート・フォワード・アカデミーを使って、資金を動かしてたのは事実じゃないか!」
彼女は、唇を震わせながら噛み締め自分の罪を全て飲み込むように言った。
「木戸部長はあの会社の決済には……一切関与してない。最終決裁者は私よ」
脳の奥で鉄の塊が弾け、視界がぐらりと傾いた。
「……あ……」
俺の喉から、意味をなさない乾いた声が漏れた。足元が、崩れていく。立っている場所が分からなくなる。目の前が暗くなる。
胃の底から吐き気がせり上がってくる。
「うそだ……、うそだ! 木戸部長は、あの会社のことを気にしてたじゃないか! わざわざ俺の所にまで来て!」
佐藤は言葉にできぬ感情をすべて空気に混ぜて吐き出した。
「私に聞いてきたの、彼女の様子を心配してね……。『畠中くんは何かあったのか?』って。私はありのままを答えたわ、イノベート・フォワードの件でミスが多すぎて指導してるって」
「なんで……」
その声は自分のものとは思えないほど細く震えていた。視界の色が一枚ずつ剥がれ落ち、足元から世界が崩れていく。耳鳴りが頭を締めつけ、呼吸の仕方すら分からない。
(俺が、やったのか)
(俺が、この人を)
(一人の、無実の人間の人生を――)
「……仁木、さん?」
目の前で、佐藤さんが、心配そうに、俺の顔を覗き込んでいる。その瞳に浮かぶのは、もはや敵意ではない。自分と同じように、何者かの巨大な悪意によって、足元をすくわれた人間に対する、憐憫のような色だった。
その、同情の視線が、俺の心を、完全に、粉々に、打ち砕いた。
「う……っ、ぁ……」
俺はその場に膝から崩れ落ちた。
床に手をつき、こみ上げてくる吐き気を必死でこらえる。冷たい汗が額から首筋を伝って流れ落ちる。
世界が回る。自分が誰で、どこにいて、何をしていたのか、もう何も分からなかった。
ヒーローなどではなかった。
救済者など、烏滸がましい。
俺は、道化だ。いや――加害者だ。
ただ利用されただけだった。
自分の過去の傷と、癒されることのない無力感を、悪魔に付け込まれた、最も愚かで、最も哀れな道化だった。あの頃となんもかわっちゃない。
そして、その道化が振り回した正義という名の凶器は、今、目の前の無実の女性の胸に、深く、深く、突き刺さっている。
静まり返ったウェルネススペースに、俺の、絶望に満ちた、荒い呼吸だけが、いつまでも、響きわたっていた。




