第1話
「なんで呼ばれたんですか? 正直、仕事が山積みなんですけど」
開口一番、目の前の若手社員は不満を隠そうともしなかった。
きちんと着こなされたネイビーのスーツも、緩められることのないネクタイも、夏の湿気をまるで寄せ付けない、彼だけが別の季節を生きているようだった。
「先日ご回答いただいたストレスチェックの結果、いくつかの項目で基準値を超えるストレス反応が見られましたので」
俺はいつもの調子で当たり障りなく答えた。
彼の表情には「自分はこんな面談を受ける人間じゃない」という苛立ちが滲んでいる。
この冷ややかな空気には慣れていた。だが、慣れるたびに、自らの無力さを骨身に刻まれる。
ストレスチェックに本音を吐けばこうして呼び出される。それを嫌い、当たり障りのない回答に終始する社員がほとんどだ。
目の前の彼は、その実態を知らずに初めて呼ばれたのだろう。これまで大きな軋轢もなくキャリアを歩んできた、社会への適応能力がそこそこ高い人間――そういうことか。
俺の仕事は、この会社に常駐し、社員たちの心の澱を掬い上げることだ。もっとも、医者ではない俺に薬は出せない。できるのは、ひたすら話を聞き、壊れてしまう前に外部の医療機関へと繋ぐ、いわば橋渡し役に過ぎない。
「カウンセリングルーム」と呼ぶと身構える人が多いため、ここは「ウェルネススペース」と名付けられている。だが、名前が変わったところで足を運ぶ人は増えない。
「いや、本当に大丈夫なんで。わざわざ時間割いてもらって悪いですけど、特に話すことないんで」
彼は椅子の背もたれに体を預け、腕を組んだ。早く終わらせたいという意思表示だ。
こういう反応も珍しくない。むしろ、ほとんどがこのパターンだ。
「そうですか。大丈夫だと感じられるのは良いことですね」
俺はいつもの様に否定も説得もせず、少し柔らかい口調で答えた。
「せっかくですし、今のお仕事の状況だけでも教えていただけますか? ここは人事とは別の機関です。話した内容が会社に伝わることはありません」
社員の目が一瞬揺れた。信じるかどうかは別として、こう伝えないと彼らは口を開かない。
「本当に……人事や上司には伝わらないんですか?」
まだ疑念を含んだ声だ。
「それに……ここに呼ばれてること自体、誰かに知られたりするんですか?」
会社に弱みを見せたくないのは当然だ。俺も会社員だからこそ、その感覚はよくわかる。
「ご安心ください。個人が特定される形で情報が外に出ることはありません。あなたがここに来ている事実も、誰にも分からない仕組みになっています」
俺は淡々と、しかし誠実に聞こえるように細心の注意を払って答えた。
このやりとりも珍しくない。警戒心を解けないまま「特に話すことはない」と言って帰る人も多い。しかし、彼は背もたれから身を起こし、腕を組んでいた手を解いた。視線の鋭さも和らいでいる。
深く息を吐き、一度視線を落とす。言葉を選んでいるのか、それともためらっているのか。この沈黙が長引けば、再び心を閉ざすかもしれない。
俺は待った。
「……うちの営業ってさ、東京23区でエリア分けされてるんですよ」
彼がようやく口を開いた。声は少し掠れていた。
「港区とか千代田区は営業もしやすい。客も多いし。でも俺の担当は下町の葛飾区で……数字なんて上がるわけないっすよ」
彼の口調が少しくだけた。警戒が薄れたサインだ。
「港区や千代田区は確かに恵まれたエリアですね。営業環境が違うと感じるのは無理もないです」
「そうなんすよ……。で、評価は売上だけで決まるんすよ」
「売上だけですか」
彼の悔しさを帯びた声色を真似て、言葉を繰り返しながら頷いた。
「前年度からの伸長率など、他の指標は考慮されないのですか?」
「いや、全然っす。建前上は色々言いますけど、結局見てるのは売上だけ。勝てるわけないじゃないですか。正直、不公平だと思います」
俺は心の中で、重点エリアを任されている社員は、信頼されてるんだろうなと思った。だが今は、彼の気持ちに寄り添うのが先決だ。
「頑張っているのに報われないと感じるのは辛いですよね」
彼はうつむき、唇を微かに震わした。やがてぽつりぽつりと別の不満もこぼれ始める。
「サポートも全然足りないんすよ。担当エリア広すぎて回りきれないのに、人も増やしてくれない。俺らみたいな後方エリアなんて、上は何も見てないんすよ。評価されるのは一部のやつらばっかりで……」
言葉はどこか支離滅裂だった。おそらく、こうして言語化するのは初めてなのだろう。積もり積もった苛立ちや不満が、堰を切ったように溢れ出している。彼は組織の在り方を罵倒しながら、自分が正当に評価されていないこと、サポートが足りないことを繰り返し口にした。
しばらくの沈黙の後、彼はまっすぐ俺を見た。
「……で、これ、具体的になんかしてもらえるんですか?」
営業マンらしい、白黒はっきりさせたい質問だった。目に見える解決策があるなら知りたい。それは痛いほどわかる。
「ここで話すことは、自分の気持ちを整理する助けになると思います」
俺は穏やかに答えた。
「整理? 意味ないっすよ」
「そう思いますか?」
「匿名で会社に提言とかできないんっすか? そっちの方がまだ意味あると思いますけど」
「現状では難しいですね。個人の声が直接会社の制度に影響することはほとんどありません。ただ、ここで話した内容は、匿名の集計として人事に共有されることがあります。その意味では、会社全体の改善に役立つ可能性はあります」
「でも、実感はないっすよね」
「そうですね。変化には時間がかかります。すぐに結果が出ないことも多いです」
彼は黙ったまま腕時計をちらりと見た。その目には虚無感と焦りが混ざっていた。
「今日言ったこと、絶対漏らさないでくださいね」
そう言い残し、軽く頭を下げ部屋を出ていった。
この日、最後の面談だった。彼の気持ちが少しでも軽くなったのか、確証はない。
ドアが閉まる音を聞きながら、俺はまた胸の奥に同じ重さを感じていた。




