第72話「だから、平安(ここ)で生きていく」
朝の村に、瑞々しい風が吹き抜けていた。
井戸端から聞こえる女たちの笑い声。畑へ向かう男たちの力強い足音。そして、村の子供たちが吉平の作った竹ブラシを片手に、「手洗い、うがい、はみがき!」と元気よく声を掛け合いながら、シャカシャカと白い歯を輝かせて走り回っている。
吉平が最初にこの平安時代へ来た時、村を覆っていたのは、病や飢えをただ「運」として諦める暗い沈黙だった。
だが今は違う。井戸のそばには手を洗う桶と石鹸が置かれ、吉平が教えた衛生の知恵は、確かに村人たちの生活の一部として溶け込んでいた。
そして、その変化の中心にいる桃色の少女は、顔を真っ赤にして震えていた。
「ち、違います……! 私は本来、陰陽師として災厄を祓い、人の道を照らす者であって……このように幼子たちから『桃色かりすま様』などと呼ばれる、あいどる? とかいう存在では……!」
「いいえ、桔梗さん。それがあなたの才能の正しい無駄遣い……いえ、有効活用と呼びますのよ」
葵がにこりと笑った。
「都の姫君方にも大好評で村の経済は潤っておりますし、何よりこの装束は洗いやすく乾きやすい。結果として、村の衛生向上にも大きく貢献しているではありませんか」
「うっ……そう言われると、確かに反論しづらいですが……」
桔梗が言葉に詰まると、結衣が横からニヤニヤと笑いかけた。
「でも桔梗さん、さっき子供たちに『手洗いとうがいで怨霊退散!』って、すっごくノリノリで魔法少女のポーズ決めてたじゃない。案外、かりすま稼業、まんざらでもないんじゃないの?」
「こ、これは民を正しい衛生へと導く方便であって……!」
「顔がにやけてますわよ」
「葵さんの意地悪!」
桔梗はかわいらしいリボンを揺らしながら、はにかんでいた。
吉平は、そのやり取りを温かい目で見つめていた。
実際、葵の圧倒的な商才と財力がなければ、この村の医療も経済も、ここまで劇的に立ち行かなかったはずだ。桔梗をはじめ、この家に集まった仲間たちは、誰もが葵という頼りがいのある姉役に何度も救われてきた。彼女はたぶん彼女ならではの過去を背負っている。ただ、そこから吉平たちとの出会いをきっかけに自身の運命をも変えていった。たぶん、誰よりも平安の世の儚さを知り、優しく、そして強い。吉平は、心からの感謝と敬意を込めて葵の横顔を見つめた。
吉平が家の中へと目を向けると、そこにはまた別の、かすかな「変化」があった。
部屋の隅では、サチが吉平の現代医学の知識を書き留めた木簡や、農業の古い書物を、驚くほど真剣な眼差しで読み込んでいた。
「読めば読むほどね、新しいアイデアがわいてくるの。特に医食同源のところ。……苦い草を我慢して飲むより、毎日のおいしいごはんで元気になれたら、絶対そっちの方がいいじゃない? わたし、そういうの作ってみたい」
時折、ふっと大人びた横顔を見せるサチは、がむしゃらに走るだけの少女から、自らの意志で知性をまとう女性へと変わり始めていた。
庭に目をやると、栞が衣の汚れも気にせず、自らの手で愛おしそうに土に触れ、薬草の手入れをしていた。ふいに葉の裏から小さな青カエルがぴょんと飛び出し、彼女の白い指先へと着地する。栞はまばたきもせずにその小さな命をじっと見つめ、それからふわりと、心底柔らかい笑顔を浮かべた。
かつて完璧な器として感情を封印していた彼女は、周囲はもちろん、本人も知らない素の魅力を開花させつつある。一人の美しい女性として、サチとはまた違う歩みで確かに前を向いていた。
「……お兄ちゃん。他の女の子たちばっかり見つめて、私のこと忘れてない?」
ふいに、隣から少し不満げな、けれどひどく愛らしい声がした。
振り返ると、結衣がすぐ隣で小首を傾げ、おにぎりを片手にニコニコと笑っていた。
「ほら、一番近くにいる、世界一可愛い妹への『あーん』とかあってもいいのよ?」
「なんでお前がヒロインみたいな距離感と特権意識で来るんだよ」
「だってさ、よく考えてみて? 今の私たちって、ここでは物理的には血が繋がってないわけでしょ。もしかしたら、もしかして……そういうのも、ありえるかもよ? ふふっ」
「ゆ、結衣、お前……そういう冗談はだな……」
吉平が言葉に詰まってタジタジになっていると、結衣は吉平の腕に強引に自分の腕を絡めてきた。その無邪気な妹の笑顔に、吉平の胸が小さく跳ねる。考えてみれば、確かに結衣のまわりには人と笑顔が集まる。本人のいう「強運」は、たぶん結衣自身が放っている魅力が運んでくるのだろう。
その甘い空気を一瞬で遮る影があった。
するりと滑り込んできた美影が、吉平のもう片方の腕に手をまわしてくる。恐ろしいほど自然に。
「み、美影、近いって……!」
美影はタイツ忍び服のしなやかなラインを吉平にぴったりと密着させたまま、誇らしげに胸を張った。
「結衣ちゃん、甘い。吉平様の隣は、私の特等席だよっ!」
「ちょっと美影ちゃん、それ以上はダメなんだから!」
結衣の抗議を、美影はすらりとしたスタイルを強調するようにして微笑み返す。
「みんな、私の前世がネコだからって油断してるけど、今の私はもう、れっきとした恋する女の子なんだよー。身体的な距離の近さなら、すでに独走してるんだから!」
「うわ、美影ちゃん、人間になった途端にものすごく積極的じゃない、じゃあお兄ちゃんを挟み撃ちにしますか?」
結衣がニヤッと笑って吉平の腕をぎゅっと抱きしめ直すと、美影も楽しそうに体を寄せてくる。二人に挟まれた吉平は、懐かしさを覚えつつも、甘い匂いで目が回りそうだった。
そのやり取りを笑って見ていた葵が、ふと思い出したように、傍らに置いていた風呂敷包みに手を伸ばした。
「そう言えば吉平さん、少しお耳に入れたいものが届いておりますの」
葵が吉平の前に差し出したのは、ずっしりと重みのある、分厚い和紙の束だった。吉平がそれを受け取って目を通すと、思わず息を呑んだ。
「これ……全部、依頼?」
「ええ。隣村や、その先の里々にまで、この村の『奇跡』の噂が広まっておりますわ。病を退け、命を救う不思議な知恵を、自分たちにも授けてほしいと……」
葵は吉平の手元をそっと覗き込み、少し困ったように眉を下げて微笑んだ。
「皆さんには少し休んでいただきたくて、私が数日お預かりしていたのですけれど。あまりに切実な声ばかりでしたので、隠し通せなくなってしまいましたわ」
……そう、この時代には、まだ知らない病や苦痛が山ほどあるはずだ。流行り病、咳の病、熱の病、毒草や毒虫の害。でも、もうただ祈るだけじゃない。手を伸ばせば、変えられるものがある。一人では届かなくても、この仲間たちとなら、きっとどこまででも届く。
「……よし。まずは手始めに、隣の里を見に行こう。みんなも、自分にできそうなことを考えておいてくれ」
吉平は和紙の束を置き、立ち上がった。
「わ、私は……また、この格好なのですか?」
不安そうに尋ねる桔梗に、結衣がきっぱりとうなずいた。
「桔梗さんは、新しいポーズでも考えておいた方がいいわ。初見の村は、つかみが大事よ」
「つかみ!?」
「手洗いとうがいを広める、清めの陰陽師でしょ?」
「言い方が上手いぶん、逃げ場がありません……!」
歴史の教科書を塗り替えていくかもしれない、彼らの果てしない平安医療改革は――。
ここから、一気に加速していく。
最後まで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。愛着のある作品なので、近いうちに新シリーズも書きたいと思っています。




