第1話「泥水と死体の都の片隅で」
むせ返るような死臭と、腐った泥の匂いが鼻を突く。
雅な貴族たちが牛車で練り歩き、美しい和歌を詠み交わす平安京。だが、それは都のほんの一部、限られた特権階級だけの世界だ。
都の外れ、鴨川の河原に近いこの村の現実は、地獄と見紛うばかりの惨状だった。
道端には飢えと病で倒れた者の遺体が筵すら掛けられずに転がり、野犬やカラスがそれをついばんでいる。川の水は生活排水と排泄物で濁り、夏になれば蚊や蝿が黒い雲のように群がった。
これが、俺が転生した平安時代の「リアル」だ。
俺の名前は吉平。現代日本で医学生として日々勉学に励んでいた俺は、不慮の事故で命を落とし、気づけばこの時代の貧しい農民の子供として生を受けていた。
現在、数え年で十五歳。
前世の記憶が完全に蘇ったのはつい数日前のことだが、思い出した瞬間、俺はこの時代のあまりの不衛生さに絶望した。
「吉平……けほっ、けほっ……」
薄暗く風通しの悪いあばら家の中で、乾いた咳が響く。
土間に敷かれた藁の上で苦しそうに息をしているのは、幼馴染のサチだ。年は俺と同じ十五。泥にまみれ、栄養状態も悪いが、本来は愛嬌のある可愛らしい顔立ちをしている。だが今は、顔を真っ赤にして高熱にうなされていた。
「サチ、大丈夫か。無理に喋らなくていい」
「ごめんね……私、物の怪に憑かれちゃったみたい。お母ちゃんが……明日、祈祷師様を呼んでくるって……」
サチはかすれた声で言いながら、力なく微笑んだ。
物の怪。呪い。祟り。
この時代の人間は、病気をすべて目に見えない超常現象のせいにしている。貴族でさえ祈祷に頼るのだから、知識のない庶民がそう信じ込むのも無理はない。
だが、医学を学んだ俺にはわかる。
サチの症状は明らかに風邪、あるいは何らかの感染症の初期症状だ。おそらく、不衛生な川の水をそのまま飲んだか、泥まみれの手で食事をしたことが原因だろう。
祈祷など、ただの気休めにしかならない。それどころか、高額な布施を毟り取られて家計が破綻するだけだ。
「サチ、祈祷なんて必要ない。俺が治してやる」
俺は立ち上がり、家の外に出た。
まずは水分補給と、清潔な環境が必要だ。
俺は村の共同井戸に向かい、手桶に水を汲んだ。この井戸水も決して安全とは言えない。周囲の土壌が汚染されているからだ。
家に戻り、貴重な薪を使って囲炉裏に火をくべる。土鍋に水を張り、ぐつぐつと沸騰させた。
「吉平、何をしてるんだ? お湯なんて沸かして、もったいない」
畑仕事から戻ってきたサチの母親が、怪訝な顔で尋ねてきた。
「おばさん、サチの熱を下げるには綺麗な水が必要なんだ。このお湯を冷ましてから飲ませてくれ。生水は絶対に駄目だ。物の怪は、濁った水と一緒に腹の中に入るんだ」
現代の細菌学など説明しても理解されない。だから俺は、あえて彼らの常識に合わせた「方便」を使った。
「そ、そうなのかい?」
「ああ。それと、手洗いをさせる。サチ、起きられるか?」
俺は竈の灰を水に溶かして上澄み液を作った。灰に含まれるアルカリ成分を利用した、簡易的な洗浄液だ。
俺はサチの泥だらけの手を、その灰汁と沸かした湯で丁寧に洗ってやった。指の間から爪の先まで、念入りに。
「吉平の手、あったかい……」
「これからは、物を食う前には必ずこうして手を洗うんだ。そうすれば、物の怪は寄り付かない。わかったな?」
サチは不思議そうにしながらも、こくりと頷いた。
次に俺は、粗塩を少し混ぜた湯冷ましを作った。経口補水液の代わりだ。これを少しずつサチに飲ませ、汗をかいたボロ布を着替えさせ、家の中の風通しを良くした。
祈祷に頼らず、ただ「清潔にして水分を摂る」。
現代では当たり前すぎるその行為が、この過酷な平安の世では、何よりも強力な「魔法」となることを、俺はこれから思い知ることになる。




