第6話 愛と即位
戦の熱がまだ残る高千穂。
それでも空は青く、日向はいつものように壹真を呼ぶ。
戻れないと知りながら、それでも惹かれてしまう――これは、恋と運命が同時に動き出す夜の物語。
【一 戦のあとさき】
火の国の裏切りから、三日が過ぎた。
焦げた木の匂いは、まだ谷のどこかに残っている。南門では折れた柵の修復が続き、朝も夕も、槌の音が響いていた。
それでも――高千穂の空は、どうしようもなく青かった。
「ようやく……人の声が、戦じゃなくなってきたな」
壹真は水場で桶を満たしながら、小さくつぶやいた。川の水は冷たい。手首に噛みつくみたいだった。
ここ数日、ろくに眠れていない。
「油断するなよ」
後ろから低い声が飛んできた。佐士だった。
鎧は外している。だが、立ち方にも目つきにも、まだ戦の気配が残っている。日向の弟。宮廷軍を率いる若き統率者。
この男はいつも、壹真の半歩前か、半歩後ろにいる。
「狗奴国が、このまま引き下がるとは思えん」佐士は淡々と言った。「火の国の残党も、いつ牙をむくかわからない」
「休ませてくれない世界だな……現代人に優しくない」
「その“げんだいじん”とは何だ」
「ええと……たぶん、まだ生まれてないどこかの人」
「ややこしい奴だな」
呆れたように言いながら、佐士の口元が少しだけ緩んだ。
ほんの一瞬だけだ。だが壹真は、その変化を見逃さなかった。
けれど次の瞬間、佐士の視線は壹真の胸元に落ちた。布の下で、勾玉がかすかに脈打っている。
「……また光っているのか」
「ああ。最近、勝手に“ドクドク”言い出すんだよ」壹真は肩をすくめる。「お前んとこの神様、人に心臓を預けるタイプ?」
「軽口を叩くな」
声は低い。けれど、それはただの叱責ではなかった。そこには、苦い感情が混じっていた。
「その力がなければ、南門は守れなかった」佐士は言う。「だが同時に――姉上の傍に、“お前でなければ駄目な場所”が増えていく」
壹真は返す言葉に詰まった。
佐士にとって、日向は姉であり、主であり、守るべき太陽だ。そこへ、自分のような異邦人が突然入り込んだ。
面白くないのは、当然かもしれない。
「……でも、俺だって好きで光ってるわけじゃないぞ」
冗談めかして言うと、佐士は鼻を鳴らした。
「わかっている」少し間を置いて、彼は続ける。「お前が姉上を裏切るなら、そのときは俺が斬る」
「こわ」
「だが、そうでないなら利用できるものは利用する。それだけだ」
「……そっか」壹真は苦く笑った。「でも、ありがと」
「礼を言われる筋合いはない」
ぶっきらぼうに言い捨てて、佐士は踵を返す。
その背中が、いつもより少しだけ孤独に見えた。
【二 陽のあとの静けさ】
夕刻。高千穂の谷に、山の影が長く落ちる。
仕事を終えた人々の笑い声。遠くで遊ぶ子どもたちの声。そんな何気ない音が、戦の緊張を少しずつ薄めていた。
壹真は回廊を抜け、大広間の裏口から外へ出る。
「……やっぱり、ここ来ちゃうな」
宮を見下ろす小さな丘。風がよく通るこの場所は、壹真の気に入りの“サボり場”になりつつあった。
だが、今日は先客がいた。
白い衣が、夕陽の中で淡く光っている。
「日向」
振り向いた彼女は、昼間の“巫女王”ではなかった。年相応の、やわらかな少女の顔をしていた。
「いっしん。やっぱり来た」
「ばれてた?」
「うん。いつもここで、難しい顔して空見てるから」
くすっと笑う。その笑顔に、壹真の胸が少しだけ軽くなる。
「座ってもいい?」
「どうぞ。でも……今日はあまり時間がないの」
「寄り合い?」
「ううん。儀式」
その一言で、空気が少し変わった。
「“光の向かう先”を、もう一度確かめないといけないの」
壹真は眉をひそめる。
「また、自分を削るようなことするのか?」
「削ってでも見なきゃいけない未来があるの」
日向は空を見上げた。細い月が浮かび、そのそばで星がひとつ光っている。
「だから、その前に……」彼女は少しだけ声をやわらげた。「“私として”の時間が欲しかった」
壹真の心臓が跳ねる。
「……俺で、いいの?」
日向は迷わず答えた。
「いっしんがいいの」
その目を見た瞬間、壹真はもう視線を逸らせなかった。
【三 ただの少女の願い】
風が、ふたりの間をゆっくり通り抜ける。
「ねえ、いっしん」
「うん?」
「あなたが、この谷とはまるで違う世界から来たんだとしたら……」日向は少し首をかしげた。「そこには、何があるの?」
素朴で、まっすぐな問いだった。
壹真は少し考えてから答える。
「たとえば、夜でも明るい街かな」「火じゃなくて、もっと別の光で明るくなるんだ。夜でも本が読める」
「空から降ってくる光?」
「うーん、近いけどちょっと違う。天井とか、そういうところから」
「天井……」
日向は真剣な顔でうなずいた。その反応が可笑しくて、壹真は少し笑ってしまう。
「それだけじゃない。遠くの人と声を届け合う道具もあるし、空を鉄の鳥が飛んだりもする」
「鉄の……鳥?」
「うん。めちゃくちゃ速い」
「それ、見てみたい」
「君なら絶対、『神の乗り物です』って言って人を集めるよ」
「そんなことしないわ」
「絶対する」
「しない」
言い返す声が少しだけ幼くて、壹真はまた笑った。
日向もつられて笑う。
しばらくして、彼女は空を見上げた。
「でも、そんなに明るかったら……星は見えにくいの?」
「見えにくい」壹真も空を見上げる。「こっちの空のほうが、たぶんずっときれいだ」
「もったいないね」
その一言が、なぜか胸に残った。
この空を、自分はいつまで見ていられるのだろう。いつか戻される。そんな予感は、ずっと消えない。
「……いっしん」
気づけば、日向がそっと身を寄せてきていた。肩と肩が触れる。
白い衣越しに、彼女の体温が伝わる。
「今だけは、その“遠い世界”のこと、忘れてていい?」
「……うん」
「私も、“卑弥呼”じゃなくて“日向”でいたいの」
壹真は静かに息を吐いた。
「じゃあ俺も、“光の巫覡候補”とかじゃなくて、ただのいっしんでいるよ」
「約束?」
日向が小指を差し出した。
壹真は少しためらってから、自分の小指を絡める。
たったそれだけのことなのに、胸の奥がじんわり熱くなった。
【四 弟の視線】
「……随分と楽しそうだな、お二人」
低い声が背後から落ちてきた。
振り向くと、坂の途中に佐士が立っていた。腕を組み、こちらを見上げている。
「さ、佐士」
「姉上を探して来てみれば……」佐士は目を細める。「まるで逢瀬の場だな」
冗談めいた口調だった。だが、その瞳は少しも笑っていない。
「佐士、今はただ話していただけよ」
日向が立ち上がる。けれど佐士の視線は、まだ絡んだままの二人の小指に落ちた。
「“ただ”……ね」
壹真は思わず指を離した。
佐士はそのまま、壹真をまっすぐ見た。
「異邦の者。姉上に何を見せた?」
「何をって……」
「空の上の鉄の鳥。夜でも明るい街。ここにないものばかりだ」
図星だった。壹真は言葉を失う。
日向が間に入る。
「いっしんの話は、私には楽しいの。知らない世界を知るのは、光になるわ」
「光は、時に目を焼きます」
佐士の声は鋭かった。
「俺は怖いんです、姉上」彼は日向から視線を逸らさない。「遠い光に心を奪われて、この谷の火が見えなくなるのが」
それは、はっきりした嫉妬だった。姉を取られるかもしれない弟の、切実な嫉妬。
壹真は黙ったまま、佐士を見返す。
そして、ゆっくり言った。
「……俺は逃げない」
「何からだ」
「この谷からも、ここにいる人たちからも」
佐士の眉がわずかに動く。
壹真は続けた。
「俺の世界のことを話しても、最後に戻ってくるのはいつもここだ」「日向がいるから」「この谷が、帰る場所みたいに思えるから」
日向の肩が、小さく震えた。
佐士はその表情を見て、長く息を吐く。
「……なら、いい」
短い沈黙のあと、彼はぽつりと言った。
「俺は、お前を信じたい」「――姉上が、そう望んでいるからな」
「佐士……」
「ただ一つ」佐士は壹真を見据える。「姉上を泣かせたら、そのときは本当に斬る」
「了解」壹真は口元を引きつらせた。「全力で生き延びる」
わずかに間があって、佐士はふいと顔をそむけた。
「……儀式の時間だ。姉上、迎えに来た」
「ええ」
日向は坂を下りる前に、一度だけ壹真を振り返る。
「あとで……少しだけ、時間ちょうだい?」
「うん。どこにも行かないで待ってる」
日向が微笑む。そのまま佐士とともに、坂を下っていった。
夕陽の中に長く伸びる二人の影。それを見送りながら、壹真は胸の勾玉を握りしめた。
(絶対に……泣かせたりしない)
けれどその誓いが、のちにどれほど残酷な形で試されるのか。このときの壹真は、まだ知らなかった。
ここから先、壹真と日向の関係は決定的に動きます。
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次回予告文
第7話では、この夜に交わされた想いが、やがてどんな運命に試されるのかが動き始めます。
幸福の直後に差し込む影、その最初の気配を描きます。




