あとがきに代えて
「祇園精舎の鐘の声」で始まる、物語がある。
栄えあるものがいつか滅び去るように、一人の人間の語りなど、「風の前の塵に同じ」。
「今は昔」と語り起こす、物語がある。
私達の日々の営みもまた、いずれ今となっては昔のことだと、語り起こされるときが来るだろうか。
あるいは、「昔、男ありけり」と語り起こす、物語がある。
色恋沙汰も人の営みの一つだろう。それを、「あやしう、いせの物がたり」と、厭うのも、人の営みの一つだろう。
女神に怒りを歌うように請う、物語がある。
とめどない怒りの連鎖はやがて滅びを生み、その後には語りだけしか残らなかった。
「とぞ本にはべめる」と結ぶ、物語がある。
虚構の中にあってなおも、私達を揺るがすものがあるのならば、一人の人間の語りにも、意味を見出せるだろうか。
今でこそ、古典と残される物語たちも、書かれた当初は当時の彼らの心を残すために認められた。今や近い昔を、あるいは未来に思いを馳せて、虚構の中に残して語った。
私達が残した物語も、いつかは過去の遺産として、どこかの美術館や、誰かの心の内に残されていくのだろうか。誰かが残した物語が、後世に、誰かへと襷を渡して、歴史の一つと交わるときが来るのだろうか。
その思いは、いつか届くのだろうか。