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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
エピローグ
360/361

暁の歌2

 そのまま眠りに落ちたらしい私は、彼の腕の中から身を起こした。乱れた長髪を流し、朧げな陽光を見上げる。いつになく燃え上がるような鮮やかな暁色が、世界を明るく照らし出した。


 見下ろすような山際の明かりと違って、睥睨するようになった太陽でさえ、陽気で、朗らかな表情を見せてくる。何気なく視線を落とすと、際立って美しい寝顔の青年が、少し苦しそうに口を結んで寝返りを打った。頬に着いた赤い跡さえも美しい、暁色で一層濃くなった彼の桃色の頬が愛しく思われた。


 撫でれば、絹のような肌触り。押せばマシュマロのような肌触り。呼吸一つ一つにさえ、甘やかな温もりが触れる。全てが愛おしく、どうしようもなく美しい。私はじっと彼の隣に座り、一つ一つの感触を味わうように努めた。


 日が上がり、彼が難しそうに眉を顰めたかと思うと、そっと目を開ける。私は無防備な顔に向けて、意地悪な笑みで返した。


「ぐっすり寝てたね」

「気持ちよくって……」


 私より頭一つ分大きい体を起こし、彼は大きく伸びをする。その表情はおっとりしたものにも関わらず、無防備だった私の顔は即座に冴えて、体の芯から冷え切ったような奇妙な悍ましさを感じた。彼は首を傾げて、青い血の流れる静脈を見せる。空色に浮かんだ白色の太陽が、月のように妖しく瞬いた。

 何かを感じ取った彼が、くい、と口角を持ち上げる。


「……どうでしたか?」

「な、なにが?」


 言いようのない違和感が沸々と湧き上がってくる。美しくも妖しい目が、心臓を射抜くような眼光が、彼の包み込むような温もりを消し去っていく。

 形をそのままに温度を奪われたかのような。肉体をそのままに魂を奪われたかのような。


「一夜を過ごした後はどんな気持ちでしたか、と言うことですよ」


 ぞわりと背筋が凍り付くのを感じた。私はこの表情を知っている。快楽に蕩けた桃色の頬、逆光の中で映える嗜虐的な微笑、激情を抑えようもないほどに興奮した息遣い。


「サビドリア……!」


 両手で自らの頬を包み、削ぎ落すように力をかけて手を滑らせていく。瞳を蕩けさせた恍惚とした表情は、最早彼とはかけ離れていた。


「その顔が見たかったぁ」


 夢であるならば、どうか、早く覚めて。


 サビドリアは力任せに私をソファに押し倒し、舌から滴り落ちる唾液を垂れ流したまま私の唇を奪う。どれだけ抗おうと足掻こうと、不気味な力によって、肉体は万力に抑え込まれたかのようにソファに押し付けられ、その一帯だけに世界の引力が集約したかのように身動ぎ一つ許されなかった。

 恐怖を駆り立てる冷たい微笑が目の前に迫る。目を閉ざすことさえ許されず、昼夜が繰り返し、世界が光と闇を繰り返す。海は荒れ狂い、津波が港町全体を飲み込みながら、それでいて建物や人だけがその勢いに押し流されぬように縛り付けられている。


 ただ人を苦しめるためだけに特化された、非合理的で不条理で理不尽な力が、町を飲み込んでいく。サビドリアはその長く伸びた舌を私に近づけて、大きく鼻で息を吸い込んで肺に空気を満たす。耳元に口を近づけると、「大丈夫だよ」と、彼の声帯に取り換えたように声色を変えて囁いた。それがますます恐怖を駆り立てる。混乱した私の心臓が過剰なほどに脈動するのを、脈拍を測って愉しみながら、サビドリアが遂に行動に移ろうとした。


 刹那、恐慌を堰き止める銃声が空を割る。変わり果てた彼の額から、温い血液が滴り落ちた。


「これは、ユウキ君がどうしてもと願い出てきた理由が分かるな」


 混乱する私が、ようやく弱まる力に抗って視線を動かすと、もう一人の「彼」が拳銃を片手に立っていた。良く目立つ銀色の拳銃で、それが特別なものであることは一目で理解できる。「゛えっ、゛えっ……」と、異常な呻き声を上げて振り返ったサビドリアは、恨めしそうに彼のことを睨んだ。


「そう睨むなよ。チコって聞いてない?ユウキ君の天文学の師匠なんだけど。君より千年は前から死霊魔術(おなじまほう)を使ってきたんだ。先輩だよ、セ・ン・パ・イ」


 サビドリアは金切り声を上げて、訳の分からないことを捲し立てる。それに倣うように、港町を襲う濁流が建物や人の命を奪おうと都市に圧し掛かる。銀の弾丸がサビドリアの心臓を貫く。弱まっていく力に比例して、海は平静を取り戻し始めた。


「世界の魔術師がどれだけ束になっても勝てないほどの異常な魔力の持ち主。アツシ・アリワラと名乗る人物が、どれだけ恵まれた才を持っていようと、その根源を断ってしまえば、それでお終いだ」


「君が目星をつけていたご遺体は全部焼却処分しておいたよ。どこにも取り換えられる肉体はない。あぁ、もう君自身分かっているみたいだね……」


「神よ!何故、何ゆえにこのような仕打ちを……!」


 滾る生命力に任せて放たれた魔法が彼に襲い掛かる。それらを命からがらという様子で退けながら、彼は諭す。


「神の為ではなく、君の為に使われたからだろう。神様も愛想をつかしたというわけだ」


「あ、は、は、口惜しい……!こ、の赤く滴る血は焔の如く、こ、こ、の激しい瞋恚は我が肉を焼くが如き!昂る恐怖と、尽きぬ絶望と、果て無き瞋恚は、神意そのもの。恵み深き神に御身を委ね……」


 やがてサビドリアの目から血が溢れ、それに続いて、重力に任せて、私に向かって色々なものが零れ落ちていく。最後には骨だけになった彼の体が、ぼとりと、私の胸に向かって崩れてきた。


「隙を作る必要があったし、下準備も必要だった。うん百年も準備をこさえてきてようやく肩の荷が下りたよ。この体も君に返そう。大事な人のものだったんだろう?」


 本来の彼の体を持ったチコという人物は、肩をはだけさせ、証拠を示すように治癒した弾丸の傷跡を晒して見せる。

 敵意が無いらしい彼をじっくりと観察する。飾らない標準的な風貌の青年で、やはり面長の顔立ちをしている。やんごとない優美さは受け継いでいないようで、当時の面影だけを残しているらしい。特別に美形でもないし、冷静に見ればその方が却って記憶の中にある「お兄ちゃん」らしかった。


 矢継ぎ早に話しかけてくる目の前の青年に向かって、私は率直な疑問を投げかけた。


「返すって、どうやって?」

「え、そりゃあ勿論……ここでもう一度……」


 青年はそう言いかけて、目を泳がせた。そんな魔法を使い続けていたからなのか、気づいていなかったらしい。


「み、道端に隠れるとか!」

「死に際をまざまざと見ていろと?」


「あー……」


 やはり目を泳がせる。間抜けな天文学者に呆れ果てて、私はすっかり汚れてしまった室内を片付け始めた。


「しょうがないなぁ。男一人ぐらい養ってあげるから、手伝って」


「あ、頭いいから!私こう見えて天文学の権威!頭いいから!養ってあげるっていうか、養えるから!」

「二百年も前の専門知識を、雇い手が求めてくれるの?」


 私のじっとりとした目つきに当てられて、彼はがっくりと項垂れた。彼らしからぬコミカルな動作で片づけを始めながら、「お世話になります……」とぼそぼそと答える。


 あちこちが荒れてしまったが、町は日常の静けさを取り戻し始めた。









おしまい。

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