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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
エピローグ
359/361

暁の歌

 潮風の吹く町の中を、古い衣装を着た住民達が行き交っていく。大きな樽に一杯の水を汲み、澄んだ空の青色をその中に映しながら、私はこうした喧騒の中を歩んでいた。


 プロアニア王国が崩壊し、旧カペル王国領はペアリス共和国として再編された。私を招き入れようとする人もあったが、その誘いは丁重にお断りして、アーカテニアの潮風に当たる生活に腰を落ち着けた。


 本来であればサビドリアの殺人に関する罪で私もしっかり死罪となるべきところを、彼のことが心底嫌いな法王・アルフォンゾ猊下は大層喜び、色々と私の暮らしについて取り計らってくれたらしい。サビドリアの死因は悪霊による呪いであるとされ、体中の青痣がその何よりの証拠であると結論付けられた。


 思わず笑ってしまうが、この国はこうした権威がまかり通る、実にカペル王国的な国家であるらしい。貴族として生まれて、貴族の生活にしか馴染まなかった私には丁度いいほどに、この国は当たり前に差別があるのだ。


 いや。誰も疑問に思わない差別など、きっと無いに等しいのだろう。女と男がそうであるように。


 重い水桶を街路の脇に置き、一息つく。体をまさぐるような不快な蒸し暑さが纏わりつく。汗をかけばかくほど湿度が増していく。


 一呼吸置いて自宅へ戻ろうと寄りかかった壁から身を起こすと、私より一回り大きな、華奢な影が陽光を遮った。持ち上がった体と共に顔を持ち上げると、逆光で影を成した、人の良さそうな青年の顔が目の前にあった。


 育ちの良さそうな整った顔立ち、やや面長だが、均整の取れた輪郭。透き通るような白い肌に、ほんのりと桃色が乗っている。

 何より、慈しみ深く、包み込むような優し気な笑顔。


 年相応に成長しているが、見間違うはずもなかった。勿論、我が目を疑ったが。


「……一人にさせてしまってごめんね」

「お兄ちゃん……?」


 陽炎よりもはっきりと、視界が歪んでいくのを感じた。眩暈が起きるような興奮と、言いようのない幸福感が津波のように押し寄せてくる。


 彼は重い水桶を軽やかに持ち上げた。そして、何気なく笑顔を見せる。私は人の目も気にせずに彼に取り付き、シャツがぐしゃぐしゃに濡れるまで泣いた。


 触れられる。温もりがある。確かに「生きている」のだと感じられる。


「案内してくれる?」


 困ったような笑みを浮かべた彼に向けて、私は何度も頷いた。そのたびに服に擦り付く涙の一滴が、線の細い彼の胸板を透かし出す。意外なことに、彼は男らしい分厚い胸板をしていた。


 修道院では具合が悪いということもあり、法王の計らいによって、私の住まいは侘しい一軒家に移されていた。以前とは比べるまでもないが、狭く、人気のない自宅に着くと、冷静さを取り戻した私は気恥ずかしさに家の前で足を止めた。


 不思議そうに顔を覗き込む彼に向けて、私はぼそぼそと弁明をする。


「色々とあって、家が汚いの」

「気にしないよ。部屋の掃除もしてたでしょ?」


 生理が始まったころから、彼が部屋の掃除をし始めたのを思い出した。当時と何ら変わりのない、どこかおっとりとした優し気な笑みで、私を包み込んでくる。私は急に胸が高鳴るのを感じて、いそいそと自宅へと逃げ込んだ。

 扉を再び開け、「ちょっと待っててね!」と早口で忠告する。再び扉を閉めると、急いで散らかった室内を整理し始めた。

 整理と言っても、ごみをごみ箱に放り込み、服をクローゼットに捻じ込むだけなのだけど……。


 一頻り見栄えを整えると、私は急いで扉を開け放つ。彼は水桶を玄関脇に置き、手首を解していた。


「あ、ごめん!さっき貰っておけばよかったね……」

「大丈夫。僕の方も色々あったから、慣れているよ」


 彼は目を細めて笑う。港町特有のうだるような暑さの中で、彼は薄っすらと額に汗を滲ませていた。その姿がいかにも好青年然として、思わず胸が弾けそうになる。激しくなる動悸を隠しながら、彼を室内に招き入れると、入って早々に、彼は周囲を一周眺めて笑った。


「あんまり掃除してなかった?」

「へぇっ!?」


 動揺する私を見て、彼はからからと笑うと、早速と言わんばかりに掃除道具を探り当てた。部屋の隅々にある埃を落とし、こびりついた油汚れを磨き、慣れた手つきで掃除をこなしていく。

 私より掃除が巧いのは何故?などと考えるのもつかの間、彼はクローゼットの前に立ち、戸口を開けようと手を伸ばした。

「あっ、ちょ、ちょっと……!」


 きょとんとした顔だけをこちらに向け、彼はそのままクローゼットを開けてしまう。皺だらけになった安価な衣装が、彼の頭上へ向かって雪崩れていく。


「うわぁ!」


 衣服をかき分けていくと、小さく咳き込んだ彼が服の中から首を出す。僅かに眉間に皺を寄せて、彼は私に困ったような笑顔を見せた。


「もう、世話が掛かるんだから……」

「勝手に開けるからでしょ!デリカシーの欠片もない!」


「はは、ごめん、ごめん。兄妹みたいなものだからさ」


 彼はそう言うと、衣服の山の中から這い出して、服を折り畳んでいく。高級な外出用の生地と認めると、それをハンガーにかけて、皺の寄らないようにクローゼットに掛ける。意味を成していなかった突っ張り棒は、嬉しそうに軋み声を上げて、鮮やかな色の衣装で着飾っていった。


「ここだけで一時間かかっちゃうんじゃない?」

「私も仕事があるから時間が無いの」

「今は何してるの?」

「……仕立屋に勤めてる」

「じゃあ医者の不養生だ」

「うるさいなぁ……」


 他愛ない会話をしながら、彼と並んで衣服を畳んでいく。肉体が成長しても変わらない穏やかさで、心の騒めきや胸の高鳴りが止んでいく。


 共に暮らしていくというのは、もしかしたらこういう事なのかもしれない。気兼ねなく、罵り合ったり、煽り合ったりしながら、気の抜けた日々を過ごすこと。それが、不思議な幸福感を齎してくれるのかも知れない。


 狭い家を隅々まで掃除すると、彼と私はリビングに隣り合って座った。

 暑く高い陽射しが沈みゆくのを、ぼんやりと眺める。湯気の立った白湯を入れたコップを二つ並べながら、茜色の中に溶けていく時間に身を預ける。心地の良い疲労感に任せて、彼の肩に身を預けると、少し身動ぎした彼の温い体温が伝わってくる。


 終わりのないものはないのなら、せめて夢であってもいい。夢であるならば、どうか、どうか。一秒でも長く、この夢が続きますように……。


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