‐‐1916年夏の第三月第一週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
遠い昔に、ケヒルシュタインという自治都市が興った。カペル王国で迫害されてきた技術者や、エストーラで抑圧されていたずっと古い信仰を持っていた人々が、荒涼な地へと逃れ、自らの生存の為に領地を作った。魔術不能が殆どを占め、自らも大国から唾棄されていた原住民たちは彼らを受け入れる。彼らの優れた専門技術は、寂れた地域を少しずつ発展させる手助けとなった。
やがて帝国第二の家臣として辺境伯領を治めたホーエンハイム家が、自国の直轄地であったゲンテンブルクを中心としてブランドブラグ辺境伯国を形成する。後にケヒルシュタインを中心に発展した古い文化はこの国家に編入され、やがて辺境伯は、帝国家臣であると同時にこれら北方の沿岸地帯を治める王侯貴族となる。元来の魔術不能が多いという地域色を色濃く残したままで、ここにプロアニア王国が勃興した。
カペルの王族とエストーラの皇族にとって通過点に生まれたプロアニアは、激しい対立構造の中で独立を守るために、国防の必要に駆られて更なる技術革新を進めていく。艱難辛苦の果て、やがて王国は、世界髄一の技術大国となった。
国防のための戦争が、やがて侵略の為の戦争となっていく。圧倒的な才能を凌駕する普遍的な能力の泉は、優れた魔術師達を蹂躙し、ここに地上の楽園を築いた。
それも、今は昔の話。カペル王国はペアリス共和国として再編成された。プロアニア王国は大農業国からの交易も断られ、ムスコール大公国からの国交も断られ、唯一の支援国となったエストーラからは貧弱な食料供給しか与れない。
元々エストーラもプロアニアも、農業には適した土壌ではなかったが故に、エストーラには全く非がない。化学肥料で自国の供給に無理やり答えるにしても、一般市民に行き届かせるほどの耕地面積は確保されていなかった。
ゲンテンブルクでは痩せこけた市民が工場の壁にもたれ掛かって項垂れる光景ばかりが続いていた。
国王ヴィルヘルムは肉体の衰えも感じながら、粗食によって痩せ衰えていく自分が次に置かれる立場について深く考え込んでいた。
プロアニア王国に兵士はいなくなってしまった。略奪も出来ず、救援も依頼できない。国王は家臣から離れて物思いに耽ることが多くなっていた。
明くる日の朝、無言で執務机に座ったまま、硬直する国王の下に、慌てふためきながら衛兵が駆け込んでくる。肉体的にも不健康な兵士は、国王に向けて「市民の暴動を止められない」と報告した。
国王は振り返り、緋色の中に淀んだ暗色を浮かせた瞳を向けた。
「そうか、お疲れ様」
混乱する兵士からすぐに視線を外し、がらんどうの執務机に向かって焦点の合わない視線を向ける。指揮官を失った兵士は狼狽えて、宮殿から続々と逃げていく。
家臣一同もそれに従った。大臣は勿論、下級の従者も、宮殿を取り囲む民衆の波から逃れていく。遂に一人放心する国王だけが、執務室に取り残された。
同じ頃、宮殿の中を早足で行くアムンゼンの影が、執務室へ向かって進んでいく。国王の支持者は最早いなくなり、民衆が宮殿を荒らしまわるのも時間の問題である。
延々と無機質な壁が連なる廊下の中で、アムンゼンの影は一つの影が揺り椅子に揺られる様を目にした。自分と同じように宮殿に残った者がいることに柄にもなく驚いたアムンゼンは、思わず伸びる影へと注意を向ける。そこには、合わせた手を腿の上に置き、一点を見つめるフリッツの姿があった。
「フランシウム閣下……。まだいらしたのですか」
自分と同じように合理的な選択をしなかった男の姿に釘付けになる。フリッツは揺り椅子が動くのに身を任せながら、ニヒルな笑みを零した。
「宰相閣下。私は一体何人を殺めたのでありましょう」
アムンゼンは首を傾げ、眉を顰めた。
「フランシウム閣下には前科も、徴兵の記録も御座いませんが」
「そういう事ではありませんよ」
フリッツは揺り椅子に身を預けたまま、アムンゼンから視線を外して続ける。
「私が何人の人殺しに加担したか。私が何人の人殺しを手助けしたかということです」
「フランシウム閣下は、殺人の教唆も、殺人の幇助もしていないでしょう。貴方は国家の要請に合わせて兵器を作った。それだけです。貴方は、それ相応の権利と義務しか負いません」
フリッツは、右耳だけで反論を受け入れるように首を傾げてみせる。都市機能の停止したゲンテンブルクの宮殿は、昼だというのに酷く暗く、もの悲しい。煤煙の中にくすんだ霧が漂う緊張感は、いかほどであろうか。
「放棄できるものが権利でもありましょう」
アムンゼンに行くようにと顎で合図をする。その姿は、健康な頃のヴィルヘルムの仕草によく似ていた。
アムンゼンは短く「失礼します」とだけ伝えると、駆け足で王の執務室へと急ぐ。フリッツは遠ざかる靴音を追いかけるように、静かに首を傾けた。
やがて、アムンゼンは王の執務室へと辿り着く。放心状態の王が執務机と向き合っているのを認めると、彼は王と無理矢理顔を合わせた。
王の疲れた笑みが、アムンゼンの胸に重石のように圧し掛かる。
「やぁ、アムンゼン。元気そうだね」
傾国へ向かう日の空は変わらずに霧深く曇天に覆われて、鬼気迫る表情の市民たちがバラックの宮殿を隠した人工の迷彩の中を手当たり次第に開け放っていく。牢獄から溢れ出した政治犯たちと、幸福を確かめ合う市民の姿が目下に広がっている。
「陛下。退却を進言致します」
濁った赤い目がアムンゼンを捉える。
「試したいことがあるんだ」
ヴィルヘルムは憔悴した笑顔で、徐に戸棚を開く。彼は舞台の上で演技をするように無地のレコードをアムンゼンへと見せ、それを、蓄音機上にセットする。どこから手配したのか、公共放送の為の簡便な装置に電源を入れると、そっとレコード針をレコードに乗せた。
国威高揚の国歌を背景に、プロアニア王国崩壊を告げる放送が響き渡った。
市街に垂れ流されるレコードによるラジオ放送は、国家の敵に王国がなす術がないことと、国民の尊厳を守る為に最期の抵抗をすることを促す言葉が続いた。
国民に最期を示唆する放送の中にあっても、バラックの宮殿を目指す群衆の行進は止まらなかった。頬が削ぎ落されたように暗くやつれ、殆ど焦点があっていない、目を血走らせた市民たちは、却って勢いづいて宮殿を探し始めた。
王はその様子をしかと見ると、濁った赤い目を伏せたかと思うと、肩を震わせて大笑した。
「陛下」
国民に抵抗を促すラジオ放送が、虚しく繰り返し、市民に向けて最期を示唆する。
「世界はプロアニア王国という秩序を選ばなかった。それだけのことだよ」
時計が秒針を刻む。その音よりも早く心臓が鼓動するのが、アムンゼンには耐え難く思えた。
「僕は、地獄に、落ちるね?」
‐‐この世に地獄などというものはありませんよ‐‐
アムンゼンは冷静にそう答えるべきであった。しかし、高鳴る胸の鼓動や、彼自身の中から湧き上がる非論理的な思考だけが、唇に纏わりつく。
しかし、もしも、陛下がそれを恐れるというのならば。
アムンゼンはポケットの中から徐に拳銃を取り出し、主の脳天に照準を定めた。
「地獄の底まで、お供いたします」
それが、忠義というものだろう。
ヴィルヘルムは目を見開き、深紅の瞳を揺らす。光を反射する瞳が落ち着きを取り戻して動きを止めると、悔しさとも惨めさとも取れるような笑顔を、寵臣に向けた。
その日、バラックの宮殿に、二つの銃声が響き渡った。