静かの海
‐‐1914年冬の第四月第二週、ウラジーミル宇宙基地‐‐
ムスコール大公国初の宇宙飛行士となる男は、物分かりがよく陽気で、明晰で判断力に優れた人物であった。ベルナールは夢見た男の終の住まいとなった町で、数多の研究者と政府の金、そして民間の寄付金を湯水のように注ぎ込み、男が特許を得た技術をふんだんに利用して、液体燃料エンジン・固形燃料エンジン搭載型のクラスター型ロケット『ユーグ・ノル』を完成させた。そして、彼はムスコール大公国とプロアニア王国の違いをよく理解して、夢を見た男の為にほんの少し、いたずらめいた工夫を機内に施してみせた。
宇宙飛行士の男とはじめて顔を合わせたベルナールは、男と握手を交わすなり、その衣装をまじまじと見つめた。
「良く似合っている」
「ヘルメットをかぶるとハンサムな顔が隠れるのは残念ですけどね」
男がおどけてみせると、ベルナールは静かな笑い声をあげた。基地内部に漂う異様な緊張感に感化されずにいる目の前の男に、ベルナールは諭すように語り掛けた。
「君がこの大業を成し遂げるには、沢山の人々の努力が必要だった。沢山の夢が、君の双肩にかかっているわけだ」
二人はゆっくりと歩み出す。この多弁な老人に対しても、男は物怖じすることなく、人好きのする笑顔を向ける。
ドアが開かれ、明るい青空が開かれた発射場へと至る。ぎらぎらとした陽光に片目を瞑った男に、ベルナールは再び手を差し出した。彼は手を差し出すと同時に、男の視線を撮影室の大きな窓の方へと誘導する。瞬時に理解した男も満面の笑みで手を取り、大きな窓へと顔を向けた。
そして、手が解かれると、今度はベルナールから古い本が手渡される。不思議そうに本を受け取った男に対して、ベルナールは口角を持ち上げてみせた。
「世界で一番、君の夢に貢献した人の著書だよ」
眩い太陽の下、白い宇宙服を着こんだ男は、小さく歓声を上げて、大きな窓に向けて自慢げにその本をかざして見せた。その暢気な仕草に、ベルナールは鼻を鳴らして笑う。やがて陽気な若者は、旧知の友人に対するように、ベルナールに手を挙げて別れを告げる。
堂々たる立ち姿が光の中に向かって行くのを、身軽になった左手を振って見送った。
世界は過去が絡まり合って今へと連なり、今は連続で移ろいながら糸のように交わって、未来へと進んでいく。身軽になった手にある皺や汚れさえも、青く澄んだ空の下ではきらきらと輝いて見える。
喧しいアナウンスが鳴る。ベルナールと男は今を一歩一歩踏みしめて、背負ったものを伝え終えた男達の未来に向かって、留まることのない時間を歩んでいく。ある者は光と喝采の中へ向かい、ある者は舞台装置の裏側へと向かって行く。各々が静かに別れを告げる中で、人々の視線は新たな物へ、新たな未来へと向けられた。
ベルナールが管制室に到着する。忙しない従業員が鍵盤のようなキーボードに打ち込み、ある者は放送の音量を最大にする設定する。
「既に全ての工程とトラブルのシミュレーションは終えている。この打ち上げが偉大なドラマとならないように、君たちも最善を尽くしてくれ」
カウント・ダウンが始まる。現実が夢と空想を追い越す瞬間が近づいていく。高まる緊張感の中にあっても、ベルナールは成功を確信していた。
間違いの多い人間達だった雷の民に代わって、正確なコンピュータが計算をこなしてくれる。結果に間違いはなく、プロアニア人が紙とペン、計算盤によって成し遂げた大偉業を、若い開発者たちの作り上げた装置によってフォローする。それは変幻自在の柔軟さによって旅立つ人を助け、そして月面へと導いていくだろう。
カウントが0となる。ロケットは計算通りの時間ぴったりにエンジンを稼働させ、計算通りのエネルギーで空へと機体を導く。
それはやがて分厚い雲の中を貫き、成層圏へと到達する。膨大な熱の暴力に耐えた機体は、宇宙空間へと到達し、凹凸のある月面に向かって真っすぐに向かって行く。
機体は月面に近づくと一度分離して反転し、再び合体する。機体が強い力に抗ってエンジンを吹き、ゆっくりと月面へと着陸した。
管制室は月面からの通信を受け取る。
「こちら『ユーグ・ノル』、月面への着陸を確認。乗組員に外傷無し。これより調査ミッションを開始する」
管制室に大歓声が起こる。ベルナールはただ通信を聞き、静かに息を吐いた。
月面に降り立った男の姿が、管制室の映像に映し出される。男は公国の国章が描かれた小さな旗を、月面に強く、強く、突き立てた。
主な出来事
エストーラ皇帝ヘルムート・フォン・エストーラ・ツ・ルーデンスドルフ崩御
ウラジーミル宇宙基地より、『ユーグ・ノル』発射
プロアニア、旧カペル王国領からの撤退を表明
ブリュージュ講和会議(ペアリス共和国臨時政府が正式な国家として認定)