‐‐1914年夏の第二月第一週、プロアニア王国、ブリュージュ‐‐
カペル王国の代表者は粗野な衣装を身に纏い、不機嫌そうに煙草を燻らせていた。より正確に言えば、既に王はなく、『王国』ではない。アーカテニアに亡命した姫も、どういう訳か誘いに応じなかった。
いち早く占領されたブリュージュの道と建物は整えられており、王国のそれとは随分と異なって見えた。
彼は煙草を捨て、足で揉み消すと、人を殺しそうな形相で旧領主の邸宅を目指す。造幣所のあった建物には、プロアニア風の衣装を纏った両替商が移り住んでいた。
間欠泉で吹き上げられた瓦礫の残骸もすっかり片付けられており、石の道も再舗装されている。暗い歴史を揉み消さんとするように、都市の景観は美しい旧日の姿を取り戻していた。
邸宅の前には、犬鷲の描かれた白い車両が駐車されている。粗野な代表団は憎々しげに顔を顰めて、車両を横切っていく。
沈黙を守ったエストーラもはっきり言って同罪である。帝国の臣民を守るためにカペル人を見殺しにした罪はどれ程重いだろうか。
領主の邸宅に入場すると、そこには裏切り者の尻軽女、マリー・マヌエラの姿があった。何人かプロアニア兵との子を身籠ったに違いない女は既に60近くの老婆となっており、容貌こそ美しさを保っていたものの、首筋には年齢を感じさせる皺が寄っていた。
調度品はすっかり略奪されていたが、代わりに総督府がおかれていたのか、プロアニア風の無線機や電話機、各種の軍事用機材が残されており、無機質な空間に様変わりしている。その空間に、時代錯誤を感じさせるような衣装の老齢の女性が座っている。古いインク壺にペンを立て、書類を胸の前に置く女が、首の皮を伸ばすように首を傾ける。
「皆様は二階でお待ちですよ」
「ご丁寧にどうも」
吐き捨てるように言うと、代表団は乱暴に音を立てて階段を登っていく。錫杖や長杖を持った魔術師達が彼を囲み、軍隊のような一団が足並みを揃えて進んでいった。
扉を開け放つと、フッサレルとヴィルヘルム、アムンゼンが既に顔を合わせていた。フッサレルは彼らを見て表情を明るくし、握手をするために代表団に向かって歩み寄った。
「お会いできて光栄に存じます……」
フッサレルの手を振り払い、肩を怒らせて進む彼らは、憎きプロアニア王を鋭い目で睨みつけながら席に着く。足を放り出し、背もたれにもたれ掛かる男の姿を、フッサレルは呆気に取られて視線で追いかけた。
ヴィルヘルムはじっと仲裁者の席を見つめ、アムンゼンも書類に目を通す。居心地の悪い雰囲気を何とか盛り上げようと、フッサレルはおどけて頭を掻いた。
「いや、ははは。勇ましい所作に思わず見惚れてしまいましたよ」
「早く始めろ」
代表団は冷たく言い放つ。フッサレルはいそいそと席に着き、ヴィルヘルムに上目遣いで顔色を窺った。ヴィルヘルムはしおらしく俯き、王国側の要求をくまなく読み込んでいる。
「で、では、早速始めましょうか」
蝋燭の火だけという頼りない明かりが灯るだけの、日中でも仄暗い建物の中に、重苦しい空気が漂う。殺気に満ちた代表団の姿も相まって、暗く沈んだ室内は大きな引力が掛かっているように思われた。
「まず、カペル王国……失礼しました。ペアリス共和国臨時政府の主張としては、プロアニア兵力の即時退却と、共和国樹立の正式承認、共和国の国境をブリュージュ一帯までと確定し、プロアニアに損害賠償を請求する旨要求されています。一方で、プロアニア王国は共和国樹立の承認と旧カペル王国領の継承の承認、エストーラへのブリュージュの割譲、そして損害賠償は支払い不能のため拒否したい旨の主張をされています。請求に間違いがあれば、ご発言お願いします」
両国から声はかからない。フッサレルは粛々と続けた。
「有難うございます。では、エストーラとしてのご提案に移りたいと存じます。共和国政府の要求は正当なものであり、同国民の尊厳や権利を鑑みれば当然のことです。プロアニア王国は部分的に、これらの請求を受け入れる義務があると考えます。しかし、プロアニア王国には要求を受け容れるだけの余力はなく、空前の食糧難も重なっていることに鑑みて、ブリュージュの共和国への編入は王国の経済破綻の遠因ともなります。そこで、共和国はその統治権を貸与し、この代金を賠償金に代替するという形をご提案させていただきたく存じます。元々ブリュージュはカペル王国領ではなかったことも考慮し、プロアニア王国の復興も視野に入れ、持続可能で妥当なご提案として、上述の通り和平をご提案させていただきます」
「有り得ないな」
共和国臨時政府の代表団が冷たく言い放つ。フッサレルは目を伏せ、静かに俯いた。
ヴィルヘルムとアムンゼンは沈黙を守っている。威圧する魔術師は、とめどなく溢れる怒りを抑えて続けた。
「不当な侵略によって失った国宝級の文化財、人員の喪失を考えれば、これでもはるかに安いほどだ。プロアニアを丸ごと頂いても足りないくらいだろう。フッサレル卿には申し訳ないが、こんな馬鹿げた提案であれば、この場でヴィルヘルム王の首を頂いて貴国に報復戦争をする方がよほど賢明に思える」
フッサレルは押し黙った。勝ち誇った笑みを零した代表団は、ヴィルヘルムの方を睨みつけ、冷ややかに言い放った。
「少しは何か言ってはどうか。それとも、魂の抜けた人形には述べる意見も無いということかな」
沈黙するアムンゼンの横で、ヴィルヘルムがすくりと立ち上がる。拳を握り、帯びた拳銃に右手を当てたまま、暫く共和国の代表団と対峙した。
やがて、彼は地面に膝をつき、遂に額をつく。アムンゼンは目を見開き、丸まった王の背中を見下ろした。
「プロアニア王国には人の生活があります。今更心がとか、御慈悲をなどと、貴方に縋り付くことは出来ません。しかし、我々は国民の生活を守っていかなければならない。先の大戦で手に入れた領土はすべて手放すので、賠償金の支払いを待っては頂けないか?労働力の再生産が叶えば、我が国にも賠償の余裕は生まれてくるはず。せめて、幾年かの猶予を頂けないか?」
情恩に訴えることが、どれ程悪手であるかは彼自身が痛いほど分かっていた。アムンゼンが沈黙を守ったのもそのためである。しかし、ヴィルヘルムはアムンゼンほど優秀な政治家でもなければ、高潔な軍人でもなかった。彼は秩序であり、人の形を成した機械である。機械に恥はなく、現実的な損失を最小限に抑えるには、その演算では心に訴えるより方法が無いように思われたのである。
勿論、王は優秀な機械ですら無かったのだろう。
「惨めなものだな。所詮は北方の野蛮人なら、もう一度その手で奪って見せてはどうか?」
「そのような言い方は……!」
フッサレルが声を上げる。ヴィルヘルムの背中は震え、乾いた目から涙が零れ落ちる。アムンゼンは王の背中を摩り、勝ち誇った使節団を睨んだ。
憎悪が憎悪を呼ぶ。暗い食堂の中に、赤い炎が陽炎を放って揺れ動く。
アムンゼンはやむを得ないと判断したのか、小さくため息を零し、フッサレルに視線を向けた。
「私も、エストーラのご提案には賛同いたしかねます」
「えっ」
フッサレルは間抜けな声を上げる。アムンゼンは立ち上がり、ヴィルヘルムを冷めた視線から守るように、王の頭の前に歩を進めた。
「ペアリス共和国の臨時政府は、このように高圧的な態度を取り、私達を挑発しておられます。そして、要求へ対する解答も自身の意見にのみ依拠した、独りよがりなものです。仮にそのような国家が、エストーラの仲裁案を飲んだとしても、次にはブリュージュを再占領し、我が国を脅かそうと考える、つまりは報復戦争を続けようとするに違いありません。ならば、我が国は、ブリュージュを貴国に、エストーラに預けたい」
代表団とその衛兵からの激しい罵倒が起こる。ヴィルヘルムが顔を持ち上げると、暗い影を背負った猫背の宰相の体がそこにあった。
王を庇うように矢面に立ち、度重なる罵声を受け止めながら、アムンゼンはその鋭い視線をフッサレルに向ける。フッサレルは驚き、暫く硬直したままであった。
ブリュージュをエストーラに明け渡す。それは、エストーラ案よりもむしろ、プロアニアに不利になる提案に思われた。賠償金の支払いは勿論不可能になるうえ、食糧難を解決するための命綱すら放棄することになるのである。アムンゼンは強い確信を持った瞳で、唖然とするフッサレルを見つめる。
窓から隙間風が吹き抜け、レースのカーテンが揺れる。フッサレルはその風を背中に受けて、大きく目を見開いた。
国境が隣接するリスク。それをエストーラに思い知らせたのは、他ならぬプロアニアである。アムンゼンはエストーラのことを完全に『信頼して』、国境を託したのである。
猫背の宰相の背中は頼りなく思われたが、その場において誰よりも大きく、そして強い意志の鎧で固められていた。
フッサレルは声を殺して笑う。しかし抑えられず、大きな口を開けて大笑した。
冷め切った重苦しい空気が、一気に吹き飛んだ瞬間である。
「分かりました。私もそのご提案に賛同しましょう。あとは臨時政府の御承諾が得られれば素晴らしいのですが……」
「金に目がくらんだか、フッサレル卿」
「領土欲と人命を天秤にかけた貴方には言われたくありませんよ」
代表団は怒りに声を荒げ、アムンゼンににじり寄った。殺意に満ちた錫杖の宝珠が、ぎらぎらと暗く光る。代表者が宰相の胸に指を突きつけ、唾を飛ばして叫んだ。
「決裂すればどうなるのか、分かっているのか!」
「空にきのこ雲が上がるなら、その時はゲンテンブルクとペアリスですかね」
アムンゼンは粛々と答える。フッサレルは思わず身震いし、代表団は真っ赤に染まった顔を青く染め直して後退りする。強力な武器を存分に振るって見せたアムンゼンは、再びフッサレルに視線を送った。
「……どうされますか。このまま戦うのは、両者の本望では御座いませんでしょう」
「ブリュージュは、エストーラに預けよう……」
それだけ言い残した共和国政府の代表者は、逃げるようにその場を立ち去った。後を追って衛兵が部屋を後にする。フッサレルは仲裁案を修正するように部下に預けると、アムンゼンに近づき、手を差し出した。
「本当は、このような脅し合いは好きではないのですが……」
アムンゼンはフッサレルの手を握り返し、その皺の寄った手を強く振るった。
「傘の下に降るのは、屈辱的なものですか」
「使うことが無ければ、屈辱など何のその」
フッサレルは陽気に歯を見せて笑う。アムンゼンは口の端で笑い、ヴィルヘルムは顔を持ち上げたまま、瞳を濡らしていた。