‐‐1914年春の第三月第四週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
くすんだ霞が視界を阻み、黒い煤煙が濛々と立ち昇っている。電車は運休し、自動車の排気ガスだけが道路に吹き付けられている。痩せ衰えた労働者の群れは、戦前のゲンテンブルクの様相とほとんど変わりなかった。
旧カペル王国領に食料供給を依存していた代償によって、王国内の食料供給は殆ど停止されてしまった。物価が異常な上昇を見せ、株価は極限まで下落する。
道端に負傷兵が項垂れて彷徨い歩く。製造業者はほとんど機能さえ停止し、痩せ衰えた健康な女性労働者が資本家たちに囲い込まれていた。片や寝る間も惜しんだ労働に従事させられる子供達があるかと思えば、片や失職し、ひゅうひゅうと息を零して衰弱した子供達がある。服の裾が擦り切れ、破れた革靴の先から指が露わとなり、栄養失調のために膨らんだ腹を押さえて虚ろな目をしている。
蠅が集る子供の足を蹴り動かした資本家は、顔面蒼白で工場へと急ぐが、上がり切った物価の前では彼ら以外の消費者が対価を払うことも出来ず、利益は全く上がらない状況に陥っていた。
地獄の様相を呈するゲンテンブルクの町を、山高帽で顔を隠したアムンゼンが足早に通り過ぎる。整えられたコートや磨かれた革靴まで、真黒な装いの宰相閣下は、宮殿へ辿り着くと、豪勢な邸内を駆けていった。
簡素な玉座に座る王の目の下にはくまがあり、疲れた微笑だけで彼を迎え入れる。様々な施策と強権的な徴用も空しく、アビスで途絶された輸送路を開放することは叶わなかった。
空の魔王と謳われた鯨は、高速で滑空するエストーラの航空機による機銃掃射にはなす術がなかった。ミサイルによる執拗な攻撃も、予算に反して威力は低く、核の脅威を用いれば本国に向かって北方から同様の報復が齎されることは避けようがなかった。強力な陸軍も、自国の最新武器で武装した海軍力と、カペル人達の魔法による波状攻撃の前に苦戦を強いられている。一般市民の用いる魔法は、貴族の攻撃のような派手さはなくとも、強力で際限がなく、プロアニアの主力である歩兵部隊は、アビスの市門を叩くことすらままならない。ヴィルジールからの音信も不通となり、西から時折空を行き来する航空機の音にプロアニア本国の国民が恐怖する日々が続いていた。
「陛下」
「アムンゼン。君はよくやったよ」
ヴィルヘルムはいつになく静かな口調で宰相を労った。猫背の宰相は口を引き結び、僅かに俯いた。王は立ち上がり、宰相に向かって下りていくと、その頭を二、三度優しく叩いた。
「世界はプロアニアの秩序を選ばなかった。それだけのことだ」
ヴィルヘルムはやるせない表情を笑顔で取り繕い、猫のような鋭い目つきをする宰相を宥める。背中を丸めた宰相はアビスからの督促状を握り潰し、地面に落とした。
皺の寄った紙切れがぼとりと床に落ちる。跳ね返ることも飛び去ることもなく、ただ呪いのように、彼の足元に留まっていた。
「エストーラのフッサレル卿が仲裁を取り持ってくれるらしい。ここは望みを託そう」
「エストーラは我々に憎しみを抱いているはずです。仲裁者としては相応しくないでしょう」
アムンゼンは世の中の理をよく理解していた。状況の悪化した国家に対して、手を差し伸べる国など殆どない。
「ムスコール大公国に仲裁を申し出るべきだと考えます。同国は外交感情に特に敏感であり、プロアニアが国境にあることで自国に利益があると考えるはず……」
そう提言しかけて、アムンゼンは自分の動揺に気づいた。随分と古い時代の話を持ち出したものだと、自らの指導力の衰えに呆れ果てる。
「こんな老衰ぶりだから、エーリッチの反目に気づかないのだ」
アムンゼンは独り言を延々と呟く。ヴィルヘルムは長大で質素な室内を見渡すと、目を伏せ、自嘲気味に笑う。
「今日は君しか呼ばなかったよ。君ならば信用に置けると思ったからだ」
煤煙に沈んだゲンテンブルクに雷鳴が轟く。点々と灯っていた電気が消え、宮殿の明かりも一つずつ消えていく。
「エストーラの仲裁で和平を結ぶのは、確かに、英断だと考えます……」
アムンゼンは消え入りそうな声でそう答える。ヴィルヘルムは吹っ切れたように晴れやかな顔をした。
神に見放された王国の空は曇り行く。視界を遮る静けさに紛れて、咳き込む音が、よく響いた。