劇場のミネルヴァ
‐‐1914年春の第三月第一週、エストーラ、ノースタット‐‐
リング・シュトラーセの周りに、様々な舞台や屋台が設けられております。小さな木製の舞台では、若者たちの新しい音楽がかき鳴らされ、露店にはお祭りで見られるような、持ち歩いて食べられる軽食が並べられておりました。
そして、ジュエリーショップの店先では特別な記念品が並べられております。
多くの催事でそうであるように、店頭に並ぶ記念品はいずれも、普段より高い相場で取引がなされております。例えば、ベルクート宮の犬鷲を焼き印で付けられたクッキー、例えば、老人の横顔が鋳られた純金製の記念メダル、例えば、木彫りで丁寧に掘られたオオウミガラスとワライフクロウの彫像、滑らかな肌触りの愛らしい陶製人形など、種々様々な商品が、市中を彩りました。
舞台座では様々な劇団が自慢の演劇を披露し、壮大なオーケストラ・コンサートも開催される運びとなっております。
市中の賑わいに反して、通行人の嘆く声や、聖職者が祈祷をして回る行列が割って入り、それが永劫の別れなのだという現実を思い起こさせました。
生前の陛下きっての要望によって、御崩御の折には『祝い事』として盛大に送り出して欲しいということで、通常喪に服するこの時間にも、人々は気丈にこうした催しを執り行っております。
ベルクート宮も開放され、特別に開放された、帝国が誇る数多の至宝や名画を回覧する人々が、その足で玉座へ出向き、献花を施していきます。
陛下の御遺体を納める棺は国葬の後カプッチョ・サルコファガス教会へと納棺されます。市中を巡回する聖職者たちの列はその棺を運び出すためのものでありました。
玉座の前に集まった廷臣達は帽子を脱ぎ、臣民が献花をする様を見届けて、厳かに彼らに礼を返しました。浮かれ気味にも見える都市の中枢で、悲しみに暮れる人々が集う様は異様な光景でありましたが、考えてみればそうした日常の営みの中で、多くの臣民が亡くなられたのです。それを思えば、陛下は特別な個人であることも嫌ったのかも知れません。
穏やかな寝姿を象った棺の前に、長身でトーガを身に纏った人物が現れます。真っ黒なトーガを着込み、パセリで飾った帽子を胸に当てた人物は、私達の方を向き恭しく頭を下げると、献花台となった玉座の方へとゆっくりと登っていかれました。
その姿を見て、フッサレル様は少し優しい表情となり、ジェロニモ様も懐かしむように目を細められました。
献花台に手を合わせ、冥福を祈るトーガのお方は、ウネッザへ帰郷を果たしていたベリザリオ様でありました。
彼が長い追悼を終えて下って来るところに、アインファクス様がゆっくりと近づかれます。私は、リウードルフ様と並び立って、その様子を静観しておりました。
「お久しぶりです、ベリザリオ様」
アインファクス様がそう仰ると、ベリザリオ様もゆっくりと会釈を返されました。
献花を乞う臣民の列が、背後で流れていきます。長身のトーガ、ベールの帽子を被った喪服姿、毛深い中でも薄手の黒い服を着たコボルトなど、様々な人々が、陛下に最後の挨拶を交わしに登っていきます。愛らしい縫い包みを抱いた子供とそのご両親も、その列に並んでおられました。
「突然の訃報で驚きました。心よりお悔やみ申し上げます」
ベリザリオ様がしおらしく仰ると、アインファクス様は静かに頭を下げられ、そして抑揚を抑えた声でこう返されました。
「陛下は天に召されること、神に引き上げられることを喜んで欲しいと仰いましたが、お優しい陛下の言葉とはいえ私達も受け入れ難い気持ちでおります」
献花を終えた人々は静かに玉座を降り、宮殿の外の、ある種異様な盛況の中に紛れていきます。引き締まった表情や、浮かない表情、涙を堪えた表情で、賑わいの中へと繰り出していくのです。
彼らの横顔を一瞥したベリザリオ様は、呆れたように溜息を零されたかと思うと、再び陛下の眠る棺を見上げられました。
「喪に服するのではなく、『祝う』ことで、消費を促して経済を回そうとお考えなのですね」
「どこまでも人の好いお方ですよ、全く」
現実主義的なお二人が、陛下の棺に慈しみ深い視線を送ります。瞳は潤めども、御二人はどこか満足げでもございました。
棺の前で泣き崩れる人をそっと宥める姿も見られます。棺は静かに献花台の後ろに留まり、彼らを慰めるように見送っています。
無駄な装飾を省いた簡素な棺。蓋には静かに眠る陛下の似姿。素朴で優しい御人柄を表すようなその棺に、取りつき、涙を流す臣民、延々と献花を待つ臣民の行列、その一つ一つが、陛下の御治世が残してきたものを物語っております。
やがて行列が落ち着き、旧い家臣一同が献花を終えると、複数の司祭を引き連れた司教が現れ、陛下の棺を運び出します。棺の出立と同時にその場にいた臣民が随伴していきます。
「さて、私達も」
「ノア様、弔辞はよろしくお願いしますね」
私は少し間を置いて答えました。
「……えぇ」
行列が市内に繰り出すと、道行く人々は被っていた帽子を脱ぎ、深々と礼をして棺を見送ります。夜の繁華街に満ちた浮かれた雰囲気も、今は少しぎこちなく思われます。
国章を描いた旗を持つ人が咽び泣き、その肩に友人らしき人が寄り添いました。陛下の棺が通り過ぎるたびに、すすり泣く声や「皇帝陛下万歳」の声が所々から上がりました。
「これはこれで、罪作りな御方ですね」
ジェロニモ様が呟かれると、フッサレル様は無言でその肩を叩きます。ジェロニモ様は黒い山高帽のつばを掴み、それを深く被りなおされました。僅かに俯かれたお顔の中は、帽子の影に隠されて見えません。
陛下の棺はリング・シュトラーセを進みます。小さな舞台の上で激しい音楽を奏でていた若者達も、一度演奏を止め、帽子を外して深い礼をし、陛下へ最後の挨拶を送りました。彼の周りにいる礼服とはかけ離れた衣服を着た若い人々でさえも、陛下の棺に向けては静かに頭を下げ、それを見送っていきます。
リング・シュトラーセを一周した後、陛下の棺は納棺の為に教会へと向かって行きます。
棺を運ぶ聖職者の周りを、乞食や色の異なる僧衣を纏った司祭、学生などが囲み、陛下の棺に向けて静かに追悼の祈りを捧げました。
彼らの深い哀悼は、陛下の若い頃からの取り組みの成果に違いありませんでした。
学生達のうち、特に苦学生に対しては、進学奨励金制度を整えて大学の門戸を広げられました。
乞食と呼ばれてきた人々には千年城塞の解体とリング・シュトラーセの建設に代表される国家事業を通した労働の提供によって、ムスコール大公国とは異なった形で貧困の問題を解決しようと試みられました。
教会は旧勢力ではありましたが、長く続いた深刻な宗派対立のために疲弊しており、陛下はその解決のために奔走されました。異端とされてきた聖典派への寛容と、正統宗派とされてきた聖言派の身辺の安全確保を約束することで、両派の対立を緩和されました。
いずれの政策でも、反対する臣民に暗殺未遂を受けるほど命の危険に晒され続けた陛下でしたが、最後には反対してきた人々さえも、棺に礼を尽くすほどの功績として讃えられることになったのでしょう。集まった聖職者の僧衣が入り混じっていることが、それを物語っておりました。
棺が一族の墓所まで運ばれていく中、教会に説教を聞きに来たかのように長椅子に座る商人や職人たちが、棺に向かってこめかみを押さえて祈りを捧げます。
「神よ、我らの皇帝陛下を護り給え」
決して篤信家には見えない方々でさえ、そうした祈りの為に教会への寄付を用意しておりました。傍らの箱には一杯の毛皮や、最高級のワイン、勿論銀貨や銅貨、あるいは紙幣などが既に用意されております。司教は彼らにもこめかみを押さえて祈りを施しながら、墓所への道を一歩ずつ進んでいかれます。私達もそれに従い、陛下に向けられた多くの祈りを受けながら、感涙にむせびました。
帽子を脱いで露わになったジェロニモ様の目は真っ赤でした。フッサレル様は鼻水まで垂れ流して声が枯れるほど泣き、アインファクス様は静かにこめかみを押さえておられます。リウードルフ様は静かに哀別の思いを詠んでおられ、ベリザリオ様はさりげなく、商人たちに混ざって教会への寄進をされておりました。
各々が様々な方法で陛下を悼むのを見て、鼻につんと痛みが走るのを感じながら、私は陛下の棺に寄り添って歩きます。
終生の時まで臣民に尽くされた陛下に向かって、弓を持つ聖オリエタスの像が慈しみの視線を送ります。ステンドグラスに色づいた天使の梯子が陛下の棺に光を浴びせ、もう帰らぬ思い出の数々と共に、その霊魂を引き揚げて行かれるようでした。
陛下の棺は長い階段を降り、皇帝一族の墓所へと向かって行きます。歴代皇帝の墓の間を、蝋燭の火を頼りに進む一行は、やがて主人だけがいない墓所の前で止まります。鍵束を取り、慎重に選び出した司教は、その墓所にある鍵を開けました。
厳かな金属音が周囲に反響して響きます。陛下の棺はご家族の棺の中央へと運び込まれ、静かに、そこに収められました。
司教の声と共に、最後の祝福を祈る口上が唱えられました。
堪え切れなかったのか、ジェロニモ様が袖で目を拭い、そのままずっと顔を隠しておられます。アインファクス様も流石に瞳を潤ませて、ただ、祈りの仕草をとられます。それほど深刻な表情をされていないのはベリザリオ様で、陛下の棺をじっと見つめて、祈りの口上を聖職者と共に唱えられました。
翻って私は、何故かすっきりとした気持ちでありました。長い間ご苦心なされた陛下の努力が、図らずも垣間見えたことに、侍従長として陛下を支えた私自身が、救われたような気がしたのでした。
永遠のように長い埋葬の儀式が終わると、家臣一同はカプッチョ・サルコファガス教会を後にし、舞台座へと向かいます。夜も更け、すっかり暗くなったノースタットには、未だに明かりが尽きないでいました。若者たちも代わる代わるに曲をかき鳴らし、叫ぶような激しい歌を歌い上げます。子供達は眠り、大人たちは舞台座へと急いでいるのが分かりました。
次の演目の後、侍従長ノアから、陛下へ向けた最後の挨拶があるためでした。
既に人々や、報道官などが舞台座の席を埋める中、陛下の為の席へと家臣一同が向かい、私が舞台裏へと向かいます。荘厳な音楽や軽快な演目などが入り乱れる舞台の上には、宮廷音楽隊の姿もございました。
劇場に集まった人々は、顔をくしゃりと歪めながら、帝国最高峰の演奏に耳を傾けます。陛下の御誕生よりずっと古い時代から受け継がれ、やがて陛下が育んできた芸術が、劇場に響き渡ります。外では新たな芸術が芽吹き、世界に飛び立とうとしている。どの感性が一つでも欠けても、実ることのなかった芸術の果実。それを強く抱きしめて、演奏の余韻の中へと、踏み入りました。
日も跨いだ長大なスケジュールを終えて、劇場に静寂が訪れます。私はマイクの高さを整え、弔辞を開きます。
「陛下の長いご統治、実に56年にもわたる長い統治の間に、様々な出来事がございました。疫病の流行に始まり、反政府勢力の蜂起、度重なる災害、ご家族の逝去、そして、先の大戦。斜陽の帝国は抗い難い危難に見舞われ、そして、今日ここに、エストーラ一族は断絶しました」
その現実を突き付けられて、帝国の臣民はただ涙を流すことしか出来ません。せめて嫡子が生きていればと嘆く声も聞こえます。真っすぐな御方ですから、庶子も当然居らず、エストーラ男系は完全に途絶えてしまいました。
「そうした危難の連続の中で、陛下は、類稀なる忍耐力と精神力、強い意志で、その危難を乗り越えて来られました。ですが、帝国には最早、世界の指導者としての力は御座いません。力及ばず、私達は敗れ続け、多くのものを失いました」
私の中から何かが込み上げてくるのを感じます。臣民にも思う所があるはずです。私は、語気が強まっていくのを抑えられずに続けました。
「先の大戦における犠牲者は、世界全体で一千二百万名以上にも上ります。その内、我が国の死傷者数は百七十三万名。全体の七%にも満ちません。誰に……いったい誰に、成し遂げることが出来たでしょうか?帝国の滅亡の危機さえも乗り越え、瓦礫と化した都市をここまで復興した!他の誰に成すことが出来たのでしょう?陛下、決して優秀な御仁ではなく、朗らかで素朴で、寛容でお優しい陛下。きっと生まれ変わっても、私は……」
「貴方の、臣でありたい」
私の結びの言葉と入れ替わる形で、陛下の崩御と同じ深夜二時十七分十五秒に、宮廷音楽隊が厳かな音楽を奏で始めます。劇場の市民は一斉に起立し、胸に手を当て、見たこともない『架空の鳥』達に思いを馳せながら、演奏に合わせて歌い始めたのです。
『私は歌う、オオウミガラスとフクロウを』
劇場を包み込んだ歌声が、市内にまで伝言のように伝わって、市中を包み込む大きな祈りとなって、遠く天の彼方まで、響き渡りました。