‐‐1914年春の第三月第一週、エストーラ、ノースタット‐‐
先も見えない夜闇の中で、疫病記念柱の女神が持ち上げた明かりが浮かび上がっております。ノースタットの繁華街には今も疎らに明かりが灯り、夜の楽しみを満喫する人々で溢れ返っておりました。
ノースタットの景色は明るい賑わいを取り戻しており、人々の笑顔から溢れる幸福感は私達にも少なからぬ幸福感を与えてくれます。
また、若者たちの間では新たな音楽が花開いた様子で、少々私には聞き取りづらいものではありましたが、それらも夜景の中にある明かりに照らし出されておりました。
さて、陛下はと申しますと、執務が減ったとはいえ、真面目なお方でございますから、可能な限り臣民に尽くそうと、今も自らに許される業務に没頭しておられます。
陛下の御身体に障っては大変と、私も真新しい温度調整用の機械の操作に悪戦苦闘しておりました。
極寒のムスコール大公国だけあって、暖房装置の開発には余念がなかったようで、あの災害の水面下であっても、こうした装置の開発が進んでいたようです。もっとも、私としては、色で分けられたボタンを覚えるので手一杯と言った体たらくでございます。最近の技術革新の速さには目を見張るばかりです。
陛下が老眼鏡を外し、小さな溜息を零されましたので、機械の前に立ち人差し指でボタンを押していた私も、つられて顔を上げました。
「陛下、もうお休みなさいますか?」
陛下は若い頃に見せたような、人好きのするお茶目な笑顔を私に向けられました。
「新しいものは大変だね」
「ふふっ。もう私にはさっぱりですよ」
私もおどけて返すと、陛下はからからと笑われた後、静かに、夜景の中にある奇妙な楽器を弾く若者たちへと視線を向けられました。
「フッサレル君があれを買ったらしくてね。嬉しそうに話していたよ」
「アインファクス様も話しておられましたよ。『年甲斐もなく』などと呆れておられましたが……」
そう言えば、フッサレル様は自分の御存じない遊びにはすぐに関心を示されるお方ですから、こうした話題も昔から多い御方でした。とにかく嬉しそうにしておられましたが、全くうまく弾けないとのことで、これまたアインファクス様の評価はお厳しいものでした。
陛下は楽しそうに声を上げられ、やがて夜の月のように温かい瞳で、若者たちが集まる姿をご覧になりました。
「若い頃にはそんな他愛ない話題でよく盛り上がったものだが、改めて刻限が近づくにつれ、その尊さが増していくようだよ」
刻限というお言葉に、思わず胸がざわめきます。陛下は嬉しそうに目を細めて、生気に満ちた夜の町を眺められておられます。
篝火の代わりのガス灯や、ガス灯の代わりの電灯などが、ノースタットの暗い街路を優しく照らし出し、地面を円形に切り取ります。無数の窓から燦然と輝く明かりを零したホテルの姿や、レストランのうっとりするような煌びやかな店内が、繁華街の連なるリング・シュトラーセ沿いに続いていきます。その全てが希望の兆しに向かっているような、言いようのない高揚感が都市全体に満ちておりました。
「ノア」
「はい」
温度調整用の機械の、操作用の装置を手に持ったまま、私は姿勢を正します。陛下は柔和に微笑まれました。
「明日も仕事がある。四時に、起こしておくれ」
「はい。確かに承りました」
時刻は二時十六分。最近の陛下にしては、少々遅いご就寝となっております。陛下はゆっくりとお席から腰を起こされると、立てかけられた銀製の杖を持ち上げ、足元を気にされるように杖で床を擦りながら、ゆっくりと、ベッドへと向かって行かれました。1分ほどして、陛下は深い眠りへと入られました。
その翌日、陛下が目覚められることは、遂に御座いませんでした。
享年は79歳。歴代皇帝でも最長の統治期間と、最高齢での御崩御となりました。