‐‐●1913年秋の第三月第四週、プロアニア王国、ペアリス2‐‐
花の都と呼ばれたペアリスは、瓦礫の廃墟と相成った。道に人が斃れ、それでも暴虐の限りが止まることは無い。倫理を一切否定されたような無秩序の中で、秩序立ったプロアニア兵は赤子同然であった。
政府公認の娼館の中から、幾人もの娼婦が列をなして連行されていく。ペアリスの市民は絶対にプロアニア兵の血をこの地上から根絶やしにしなければならないという使命感に燃えていた。娼婦を次々と処刑し、最後の娼婦の姿を見て、兵士達は顔を歪めて笑った。
「これは、これは。ブリュージュの。どんな需要があって招かれたのか知れませんが、随分と幸運なことで」
ペアリスの市民が舌なめずりをするのを、その女性、マリー・マヌエラ・フォン・ブリュージュ・ツ・ファストゥールは、反抗的な目で睨んだ。睥睨する市民たちの荒んだ心が、それを求めているのを感じ、彼女は底の知れない恐怖と頑なな抵抗の意思を露わにしたのである。
「少し遊んでやろうか」
鼻の下を伸ばした市民が差し出してきた手を、彼女は強く払いのけた
「汚い手で触るな!」
次の沈黙では、ずしん、と全身に掛かる重力が強くなったように感じられた。怒りではない感情を浮かべた市民が彼女を壁に追い立てる。逆光で暗くかかった影が、冷酷な嘲笑を益々不気味に演出する。マリーは思わず固唾を飲み、丸い目を不安げに開けて男を見上げた。
「なぁに。貴族様は継子を生むのも立派なお仕事でしょう?」
壁に貼りつくマリーの反抗的な瞳に、男は諭すように言う。憐れみと嗜虐心のない交ぜになった表情を鼻先に近づけ、爛々と輝く瞳に怯えるマリーの表情を映していた。
舌がずるりと伸び、マリーの肌を撫でまわそうとする。マリーは反射的に押し退け、それでも腰に纏わりつく腕を押し返した。
プロアニア兵は良くも悪くも、規則に基づいて物事を処理しようとする。それは仕事でもプライベートでも同じであった。心の為すままに動く人々に対する異常なまでの嫌悪感は、マリーの虚しい抵抗から滲み出ていた。
市民は諦めずに乱暴狼藉を働こうと非力なマリーを拘束する。ついに押し倒され、今にも身包みを剥がされそうになった時、市民がひとりでに空に向かって浮き上がった。
細く目を開くと、黒い毛を持つコボルト騎兵が、木製の棒一本で襲った市民の襟を器用に引っ掛けていた。
唖然とする周囲の市民の方へと、棒に吊るされて暴れる市民を放り投げる。コボルトはマリーを軽々担ぎ上げると、市民の武器を木の棒で叩き落とし、瓦礫を飛び越えてその場を逃れていく。瓦礫から建物へと飛び移っていき、やがて市壁を飛び越えると、彼はマリーを小麦畑に放り出し、再び市壁を飛び越えていく。
唖然としてコボルトの姿を見送ったマリーに向けて、懐かしい声が掛けられる。
「……無事だったのですか?」
「ジェロニモ……?」
懐かしい顔を互いに確かめ合い、マリーはジェロニモに縋り付いて泣く。決壊した涙腺からとめどなく流れる涙は、ジェロニモの袖と胸を濡らした。
小麦畑の周りにはエストーラの国章を付けた軍用車があり、軍用車に向かって列が続く。汚れた軍靴を履いたプロアニア兵達は、唇を震わせながらも列を乱さずに、並んだ順番通りに軍用車や複葉機に乗せられて救助されていく。
駐屯兵の数を思えば数は決して多くはない。ほとんど助からなかったと言っても良かった。ジェロニモは視線をペアリスの市壁に向ける。マリーの人となりを知る彼なりの気遣いであった。
市壁を打ち破って市内に侵入したコボルト達が雪崩れ込んでいく。僅かな生き残りが市門を潜って救助されていく。ジェロニモは落ち着きを取り戻したマリーにベールを被せ、救助者の列に整列させる。ジェロニモは彼女の震えを止めるまで寄り添い、彼女が車両に乗り込むと、それを見送って市壁を睨んだ。無惨な姿を寒空の上に晒す市壁からは、黒い煤が立ち昇っていた。
石を均しただけの簡素な道の上を、軍用車が激しく揺れながら進んでいく。車内に言葉はなく、エストーラの竜騎兵とコボルト騎兵も、医療班も忙しなくプロアニアの負傷兵を介抱して回る。マリーは年末の慌ただしさを思い起こすような、忙しない車内の様子を、放心状態で見つめていた。
ジェロニモが言うには、プロアニア兵を保護して故郷に帰すために、入念な下準備と交渉が進められたという。一旦ブローナが兵士を保護した後、そこからさらに故郷各地へと別れて搬送される。プロアニア王国から主任総督補佐官に任命されたヴィルジールが、彼らの行く先について責任を負うという。
そのうち、マリーがどのような形でブリュージュへと返されるかについては未定で、ひと先ずはブローナまでを兵士達と共に輸送されることとなるようである。ブローナもプロアニア侵略の被害は受けていたものの、ヴィルジールは取り戻した文化の擁護を求めていたために、各地の大規模な反乱を憂いてもいた。彼が白旗を挙げたのもそうした理由であっただけに、その言葉は信頼に値するものに思われたという。
車内は死臭に似た異臭が漂っていた。膿んだ傷や切断するよりほかに方法がない負傷を負った者たちにも、エストーラの兵士と医療班たちは献身的に手当てを施した。マリーは若い兵士の変わり果てた姿に悲哀を感じつつも、彼らの我慢強さに感心もした。プロアニアの兵士達は殆どが指示を確実に守ろうとするが、医療現場においてもこれ程利口な患者というのは珍しく感じられた。
重症患者の手当てを終えると、竜騎兵がマリーに完璧な礼節で治療を施す。捻られた時の青痣など、少ない負傷を負っているに過ぎなかったが、紳士的なエストーラの武人は診察や薬の塗布などに至るまであらゆる医療行為にマリーに諾否と説明を施した。拒絶する理由もないマリーは殆ど上の空で返事を返していたが、死臭をかき消す消毒液のにおいに顔を顰めていた。
「皆さんは助かるのかしら?」
「……絶対ということは無いでしょう。無事に帰国できるように死力を尽くす気ではおりますが……」
竜騎兵は声を抑えて答える。予想通りの回答に、マリーは目を瞑った。
「プロアニアの方々は、必ずしも戦争を望んでおられたわけではないのですよ」
「重々承知しております。陛下もそのように申しておられました。この災害が早く終わることを祈っておられましたから」
「そうですか……」
治療を終えた竜騎兵は、マリーの隣に護衛として控える。銃剣を立て、包帯で全身を包まれた兵士達が項垂れる様を見つめる。項垂れるプロアニア兵の唇は腫れ、目の上の瘤は痛ましく膨れ上がっていた。
「俺、故郷に戻ったら……母ちゃんのハンバーグ、食うんだ……」
消え入りそうな声で誰かが呟く。湿度の高くなった仄暗い車内に、幾つもの明かりが灯っていた。