‐‐1913年、春の第二月第四週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
プロアニア王国からその技術的な栄華を伝えるラジオ放送が途絶して暫く経過している。大公国の首都、サンクト・ムスコールブルクは新首相の登場と徹底抗戦の姿勢を支持し始め、平和路線の大福祉国家はここに至って実に二世紀ぶりに、武力行使の姿勢を明らかにした。
その一方で、新聞に載る数々の新首相批判も、反首相派のデモクラシーも、ますます激しさを増している。混沌の花道と化したムスコールブルクのアーケード街では、デモ行進と愛国主義者の言論による闘争が殆ど日常茶飯事となった。
古い落し門の格子が上がり、蒸気を吹き上げて市内へと入場した公国横断鉄道の機関車は、断末魔のような汽笛を吹き上げて、市壁に隣接された駅のホームへと停車した。
ベルナールは長旅を終えて強張った首の凝りを解し、大きな旅行鞄一杯に詰め込まれた多くの特許状を手土産として、両手で持ち上げた。
改札を出て、古い市壁の中へと下っていく。聞きなれた都心の狂騒の中に、膨大な衝突のにおいがあることに気づくと、確かにこの国が『変わってしまった』のだという事実を肌で感じ取った。
かつてのように平和ボケのお人好しではいられない。そうした人々が言葉で以て旧い活動家たちへの抵抗を続けて、デモ行進は遅々として進まない。国家は思想によって分断され、同時に思想が人々を結束させた。
市街地に下り、旅行鞄を立てかけて、彼はポケットの中を探る。萎びた煙草の箱から湿った紙煙草を取り出し、口に咥えると、暫くそのまま静止して、それをゴミ箱へと放り込んだ。
彼は旅行鞄を大切に抱え上げると、暴動のようなデモ行進の衝突を避けるようにして、大公宮殿へと向かう。
記者嫌いの彼が、戦いの最終決戦として選んだ場所。そこは、ムスコール大公国が象徴君主として抱えるようになった真の公国の支配者が住む、赤い大公宮殿内の放送室である。権威を持たない大公陛下の膝下で、彼は機材の準備をする人と向かい合って座る。支度が済み、扉が開け放たれると、記者団が我先にと席取りを始める。乱暴に折り畳み椅子を掴み、バランスを崩し、あるいは機材を無理矢理退けて、世紀の記者会見を期待する人々が集う。平和兵器の開発者へ対する憎しみの情がその瞳に燃えているものもあれば、これからの世界情勢を純粋に憂う者もある。生粋の記者嫌いにして新聞社の主要顧客でもあるベルナールは、彼らに険しい表情を向け、彼らよりは幾らか腰の休まる椅子に深く腰掛けた。
記者団には見られないものの、悪魔であり、公証人でもあるビフロンスが彼と背中合わせで地面の上に座り、祈るように手を合わせている。それはベルナール以外からは、人の形をした悪魔ではなく、単なる分厚い書籍として視認された。
四ヵ国戦争と、異界の大戦を間近で見届けた悪魔は、頭一つ分以上は背の高いベルナールに寄り添い、運命の時を待つ。幼げに見える彼は、悪魔という一官僚として、滅びの運命を見届けることの無いように、無意味に思える祈りを天上の主へと捧げた。
機材が再度整えられると、公共放送局の従業員が大きく手を挙げて、三本の指を立てる。それを一つずつ折り、ベルナールに向けて数字を数えると、最後に指を全て折って席に座り込んだ。
巻き起こるフラッシュの嵐。眩暈がしそうなほどの光の乱反射と、分厚い熱を帯びた視線とが、一斉にベルナールを襲った。
語り手はここで引き継ごう。私自身が言葉を残さなければならないからだ。
「記者団の皆さん、お疲れ様でございます。本日はお集まりいただきありがとうございます」
私は慇懃な挨拶をすると、旅行鞄を机の上に乱暴に乗せ、それを開いてみせる。中にはもちろん、数多の特許と、一冊の印刷本が入っていた。
「早速ではございますが、この度、宇宙開発事業に向けて、大きな進展があったことをここにご報告したく存じます。ここにある特許状は、前人未到の月面着陸、その為に必要なロケット開発に必要と目される特許でございます。その数は優に二百を超え、途方もない数の汗が、ここに収められています」
記者団は黙り、メモを取る。前のめりになる者、失言を期待する者、慌ただしく頁を捲る者、個性豊かな傾聴者達は、皆ぎらついた目で私を睨んでいる。
私は背中に温い体温、それも消え入りそうな細い線の体を感じながら、悠々と、言葉を続けることに徹した。
「安全性の問題、資金の問題、様々にあると存じます。先ずは人工衛星の打ち上げ、これを第一試験として、様々な数字を測り、安全性の確認を行います。そして、続けて有人の宇宙飛行、ひいては月面着陸までを一挙に目指します」
記者団は驚愕した。安全性の問題、人間を治験用の鼠のように扱う非人道的な実験、様々な憶測が彼らの耳や、手や、鼻や目が問いかけてくる。
この国の国民は、いつも見定めるようにして私を追い詰めてくる。
『学問の道に進むという事は、正解が増えて、自分の正義が揺らぐ道へ進むという事だ。君たちがこれから挑むのは、この答のない星の海だ。その中で揺蕩う小さな天の屑を、僕は拾ったに過ぎない』
ユウキタクマ博士の、『善き学生達へ』の一節が脳裏を過る。
私は、自分の中から思いが沸き上がってくるのを感じた。祖国が心底下らない、馬鹿馬鹿しい、愚かな、愚昧な、嫌らしい、妨害の限りを尽くしてくることをよく理解している。彼方此方に散逸する正義を寄せ集めた巨大で不定形の怪物は、あらゆる個人を飲み込み、懐柔し、精神ごと破壊し養分に変えてしまうことを知っている。すかさず、私は沸き上がる怒りを言葉としてぶつけた。
「今しかないのです!プロアニア王国が争乱に苦しむ今この時しか!我が国がその技術的優位を彼らに示し、証明するときは今しかないのです!今この時、前人未到の月面着陸という夢が叶うこの時は今しかない!」
違う。祖国の誇りなどというものはどうでもいい。プロアニアの鼻を明かすというその政治的な出来事でさえ、本当に心底どうでもいいし、そんなものには何の意味も価値もない。
『君たちの魂は全てそこへと繋がっている。この僕の、ちっぽけで些細な発見の数々が、大いなる海へと旅立つ君たちを導く杭となるように。君たちの研究の成果は、一つとして無駄にはならない。学問とはそういうものだ』
ただ、この旅行鞄一杯に詰めた夢が、その直向な願いが、下らない世論と、小汚い利権に穢されて阻まれることが許し難い。
「それしか、散っていった無辜の命に報いる術を私は持っていません。ここに私達人類の歩みを示すそのことでしか!私達が団結の果実をその手に取ることでしか、報いることが出来ないのです!」
『いいや、言い方を変えよう。命とはそう言うものだ』
世界は散々、個人を振り回してきた。あらゆる連帯を強要し、あらゆる自由を強制し、あらゆる不自由を飲み込ませた。それでさえ、その世界でさえ、歪められないものがあるとここに証明しなければ、私達が受け取ったバトンは、きっと未来へは続かない。
『繋がり、断ち切られ、散り散りとなり、そして繋がり、続いていく。たとえ魂が潰えても、その跡が残る限り、君の魂は無駄にならない。続いていく、繋がっていく』
だとしたら、だからこそ。
たった一人の男の我儘が、世界を振り回しても、別にいいではないか?
質問が飛んでこない。何かに圧倒されて、息を呑む記者団がそこにいた。一人、一人。個人、個人が、その良心で感じ取った何らかの思いが、私や、私以外の誰かの胸に響く。この国はそうして政治をしてきたのだ。その政治が、この下らない、最高の国を作ったのだ。
誰かではない貴方自身と、誰かではない私自身が、繋がり、断ち切られ、散り散りとなり、そして繋がり、続いていく。その男の魂を受け取った時から、私の使命には魂が籠った。それを、記者団が受け取ったのだとしたら。
この国は、何物にも抑えられない強さを示すことが出来るだろう。