‐‐1913年春の第二月第二週、ムスコール大公国、ウラジーミル‐‐
長い公国横断鉄道の旅を終えて終点の駅に降り立つと、身に沁みる冷気が彼のコートの隙間に入り込んだ。ムスコール大公国でも春の訪れがさらに遅い、ウラジーミル初春の洗礼である。
辺鄙な終点駅には目立った開発は成されておらず、ただ駅のホームに雪かき用の各種の備品が立てかけられているだけである。白い呼気を空に舞い上げて、ベルナールは曇り空を見上げた。
真実のその人に会いに行かなければならない。
彼はこの田舎の駅を出ると、即座に商店街から集合住宅への道を急ぐ。かつてヘルムート・フォン・エストーラが幼少期を過ごし、帝国第三皇子エルド・フォン・エストーラが大家を務めていた公営の集合住宅である。寂れた商店街には日用品や割高の食料品が並び、侘しい画材屋もある。若者がとりわけ多いが皆赤ら顔で、霜の下りたような白い睫をしている。背の高い襟に顔を埋めながら、彼は吹き荒ぶ海風に身を震わせた。
やがて集合住宅が近づくと、その住民らしい人々が挨拶を交わしているのが見えた。彼らの胸にはエストーラの勲章が輝き、まことしやかに囁かれていた噂話は真実だったのだと衝撃を与える。
溶け始めた雪に幅の広いスコップを差し込み、それに重心を預けて世間話を始めた住民は、ベルナールの視線に気づくと間抜けな顔をして会釈をした。ベルナールも帽子を持ち上げ、丁寧に会釈を返す。会話は再開され、彼も真っすぐに集合住宅へ向かう。
調査は済んでいた。あの夢追い人が住んでいたのは他でもない、この建物である。晩年に公園で小さなロケットの発射実験を行った記録も、何度も残されている。彼がどのような人物であったかは判明していないが、その夢を受け取るうえで最も大きな組織のトップが、彼に関心を抱いたのである。誰がそれを拒絶するだろうか?
ベルナールは建物の前で掃除をする大家に頭を下げる。丁寧な挨拶の後、大家と彼は握手を交わし合った。
「お初にお目にかかります。本日はお忙しい中、手配をしてくださって有難うございます」
「とんでもない。はじめはびっくりしましたが、これは彼の悲願であったとも聞いておりますので」
決して大きくはない、むしろ小さいと言って良い粗末な集合住宅の外階段を登る。階段を登る間に、コボルトの子供が彼らの間を駆け抜けていく。
大家はどこか誇らしげに子供に挨拶をし、子供は威勢よく挨拶を返し、階段を駆け下りていく。ベルナールは目を瞬かせてそれを見送り、大家に催促されて彼の孫が住む一室へと進む。
冬の冷気が扉を変形させ、立て付けが悪くなっているのか、大家がノックしてから暫くして強い力で扉が開かれる。思わず飛び退いた二人の顔を見て、売れない画家である孫が恥ずかしそうに笑った。
「へへ、ど、どうぞ」
大家のじっとりとした目に対して何度も謝罪のジェスチャーをしながら、画家はベルナールを室内に招き入れる。
一歩足を踏み入れれば、油絵具のにおいがつんと鼻を掠めた。
ベルナールは狭い廊下を進み、リビングへと入っていく。濃くなる油絵の具の香りにに僅かに顔を顰めた彼は、室内の様子を隈なく観察した。
防水用のシートが敷かれた床の上に、折り畳み式のイーゼルがあり、キャンバスが掛けられている。何が描かれているのかさっぱり理解できない彼は、キャンバス内のぐにゃりと歪んだ絵具の躍動を一目見ただけで、他の場所に視線を動かした。
「最近は爺さんのことを思い出すことが多いんですわ」
画家はおどけてそう言って見せると、自らは丸椅子に腰かけて、ベルナールに肘掛け付きの椅子をすすめた。ベルナールは断りを入れて着座する。
「お爺さんはどんな御方だったのですか?」
「超真面目でしたよ。凄くて。月面着陸のことしか頭にないーって感じです」
ベルナールの心配りで家賃の支払いにも余裕が出来た彼は、丁寧とは言い難い言葉遣いで矢継ぎ早に祖父の話をする。メモを取る手を止められずに、ベルナールは腰が痛むのを何とか耐え忍ぶ。
「ずっと、『約束があってな』って、俺に話していましたね。そこに濁った水があるでしょう?あれを慈しむように眺めながら、ちっとも俺の方には顔を見せてくれなかったんですよね。ああ、それと、自分の死後に然るべきところに特許を渡すようにって言っていました。それが自分の夢を叶えるんだーって」
ベルナールは小さく口呼吸をする。絵具に満たされたセンスの悪い絵画の中に、画風の異なる絵が、木製の額縁に収められている。それは机の上に置かれる一本のナイフだけを描いた、輪郭のぼやけた絵画だった。
「あの、壁の絵は?」
「え、買います?」
「いえ、そうではなくて……」
目を輝かせていた男は心底がっかりして首を擡げる。現在彼が描いているらしい物よりはずっと写実的な絵であったが、どこか印象に残らない、地味で不思議な絵画であった。画家は丸椅子の上で体を前後に揺らしながら、気の抜けた表情でベルナールに説明をした。
「これも、俺の爺さんが大事にしていた物ですよ。旧友のもらい物ですって。なんて言ったか、頭のいい研究者だったらしいです」
画家はそそくさと立ち上がると、箪笥の中を乱暴に捜索し始める。雑多なガラクタを取り出した後で、鞘に納められた無骨なシースナイフを取り出した。
「これこれ。あんまり使わないからどこいったかと思いました」
男は丸椅子に座りなおすと、ベルナールにナイフを手渡す。手で縫われたらしい皮のシースは、北方のどの地域で作られたものよりも荒い目をしていた。
「失礼ですが、御爺さんの御出身は?」
質問を受けて、画家は肩をびくつかせる。表情は僅かに強張り、持ち上がった口角も、ただ事ではない秘匿の雰囲気を醸し出していた。
「えーっと、なんと申し上げていいのか……」
「こう見えて秘密は守る方ですよ」
ベルナールは袖の中に手を突っ込む。画家は口を歪めて笑い、彼に顔を寄せるように手招きをする。
ベルナールが耳を傾けると、画家は手で口元を覆い、耳の中に空気を吹きかけるような細い息遣いで囁いた。
「カペル王国から亡命してきたんですって」
ベルナールは目を見開いて画家を見た。画家は上目遣いに彼の刺すような視線を見つめる。彼はぼそぼそと言い訳がましく言葉を続けた。
「いや、あのですね。カペル王国では自分の夢は達成できないって、そんなことを思ったらしいです。な、なんか、変な人ですよねー」
変などという言葉では足りないと、ベルナールは感じていた。地上にあって神の世界に挑むなどタブー視され続けてきたカペル王国において、まして記録に残るような重要な身分の人物でさえない男が、二世代は前に月面着陸を目指していたという事実が、彼には理解し難かった。異様としか言いようがない、全てが異例の人物だったのである。
「そう言えば、爺さんを納棺した教会からいったん預かったものがあるんですよ」
画家は話題を変えようと汗をかき、二冊の本を探し出す。一つはベルナールも良く知る、ムスコールブルクが誇る天才、未来博士ことユウキタクマ博士の著作『モンド・ルーナス』、もう一冊は『宇宙飛行詳説』と題された、手製の印刷本である。彼は読み古された『モンド・ルーナス』は流し読みにし、『宇宙飛行詳説』を熟読する。ベルナールの食いつくような黙読の様子に、画家は引き気味の笑顔を向けた。
暫くして、視線を本から外し、天井を仰ぐ。点と点がうまくつながらない手探りの推論が、その男の輪郭を掴み始めると、深い溜息を零した。
どこまでも型破りであって欲しい情熱的な先達が、誰よりも凡庸であり、何よりも堅実に研究を続けていたという事実。
空を目指した凡才の夢が、「誰かが月に行くために生きる」ことであったこと。ベルナールは身を強張らせる画家へとゆっくりと視線を下ろし、彼の右手を勢いよく両手で握った。
「貴方の祖父の夢を、私が受け取ることは可能でしょうか」
「いくらでも払います」と、さらに畳みかけるように言うと、彼は視線を泳がせ、吹っ切れたように悪い顔で笑った。
「俺の爺さんの夢は、安く売る気は無いですよ。それでも?」
ベルナールは間髪入れずに頷いた。画家は飛ぶように立ち上がると、大きく伸びをして見せた。
「じゃあその金で爺さんの故郷でも巡ろうかなー」
最後の名残雪が溶けて地面に浸み込んでいく。きらきらと輝く濡れた地面の上を、ボトル爺の噂話をしていた若者が通り過ぎていった。