‐‐1912年秋の第二月第一週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
アビスからの連絡が途絶して暫くが経った。ペアリス市民の暴動は相変わらず激しく、リエーフからは学生運動をきっかけとして度重なるサボタージュが続く。どれだけの制裁を加えようとも、食料の輸送のために必要な人手が集まることは無かった。農業従事者でさえ、仕事を投げ出す始末である。カペル王国の反意は、最早収拾のつかないところまで来ていた。
「いざという時は核兵器による攻撃も視野に入れている。その時には追って連絡する」
アムンゼン・イスカリオは各所に電話を通し、情報収集の上で駐屯兵に対してこの一言を残した。
受話器を置いては取り、電話をしてはこの言葉を返して、最大級の警戒を要求する。プロアニア本国の食料資源は、いよいよ本格的な需要過多に陥っていた。
玉座に座るヴィルヘルムも、物憂い表情で報せを待つ。アムンゼンが受話器を置くたびに、王は俯く宰相の挙動に心を揺さぶられた。
「アムンゼン、核を使おう。もう取り返しがつかない」
「ムスコール大公国が増産体制を整えている以上、核兵器の使用は困難を極めます」
「なら何のためにある?コストばかりがかさむのでは兵器は全く無意味だ」
アムンゼンは受話器を持ったままで硬直する。電話のベルが三度鳴っても、彼は受話器を取らなかった。
彼は徐に玉座を睨む。ヴィルヘルムの赤い瞳が暗い光を伴って輝いている。
「お言葉ですが、もしも核の傘を持っていなければ、プロアニア王国には既に滅びの雨が齎されているはずです。それが避けられただけでも、作った意味はございます」
アムンゼンは揺るぎない瞳をヴィルヘルムに向ける。国王は頭を抱え、前髪をかきあげ、語気を荒げた。
「いざという時に使うために兵器はあるんだろう!カペル王国を失えば、今の我が国は……」
「崩壊するでしょうね」
アムンゼンは受話器を持ち上げる。受話器越しに騒々しいレノーの悲鳴が響いた。
「いつ救助が来るのですか!私の鼓膜が破れてしまいそうです!」
受話器を放り投げる。ベルが甲高く鳴き、建設的でない悲鳴が止んだ。
「連絡の途絶したアビスの回復は絶望的でしょう。食料供給元としても、アビスとリエーフは現在全く機能していません。核兵器を利用するならば、この辺りが順当でしょう」
アムンゼンは滔々と言う。分厚い霧と煤煙の下で、労働者たちは項垂れながら煙突の閉じた工場の群れへと向かっていく。
「よし、直ぐに用意しろ。さっさとこの茶番を終わらせよう」
ヴィルヘルムは反射的に答えた。二人の間にある空気が静けさに沈んでいる。
「既存の設備を再利用するために、フランシウム閣下の考案した兵器を使用しましょうか」
ヴィルヘルムは手を払い、一任するという仕草で返す。アムンゼンは目を細め、無言でその場を立ち去っていった。
静寂に取り残された王は、脚を組み替え、足元を睨む。軍装のような長靴を履いた、細く端正な脚がある。足は絨毯の上に根差し、絨毯は訳の分からない斑模様で、彼を見つめ返している。
プロアニアが永遠の欠乏から脱するには、よく肥えた土地が必要不可欠であった。全ては彼の計算通りにうまくいった。それはむしろ予想外と言っても良い程に、世界が都合よく彼に味方した。してしまった。
神が愛さなかった大地に今両の足を置き、立ち竦む彼が神の作った大地を人のものとして奪い取った。その結果が、現状である。
レンズが霞むのを感じる。ぼやけた視野の先は何一つ変わりないというのに、脳の内側にある、最も深い場所にしまい込んだ何かが軋んだ。
腰に帯びた拳銃は沈黙を守っている。背後から砂嵐のような激しい雨音が響くと、足早に町を駆け抜ける民族衣装の男たちが、工場の群れの中へと消えていく。
しかし、国王は静かに、不敵に微笑んだ。
「なに、世界がプロアニアという種を選ばなかっただけだ」
全ての問題は選択に帰結する。プロアニアが愛した論理には、未だに破綻がないという、それだけのことだ。
受話器がひとりでに鳴る。ヴィルヘルムは一瞬びくりと肩を竦ませ、恐る恐る受話器に手を伸ばした。
『陛下、ご無沙汰しております。私です。ユーリーですよ、ユーリー』
「これはどうも、ユーリー様。ご気分は如何ですか?」
力のない声で応じる。どうすることも出来ない無力感が、彼の心を蝕んだ。
『ご気分が優れないのは陛下の方でしょう。おまけでもう一つ、気の滅入るお話がございまして』
ヴィルヘルムは黙って彼の言葉を聞く。ユーリーは皮肉な笑みを隠しながら、同情するように王の耳元で囁いた。
『我が国は、貴国が旧カペル王国領に核兵器を使用した場合、その報復として貴国、特にゲンテンブルクとケヒルシュタインを中心に、核兵器の使用を許可する特別法を制定いたしました。後日、正式な非難声明と宣戦布告がされることとなりましょう。どうぞよろしく』
「待って……」
乱暴に受話器が置かれる。王はそっと受話器を下ろし、唇を震わせた。
ボロボロと涙が零れ落ちる。世界がプロアニアという秩序を選ばなかったのだ。彼はその中でも不敵に笑みを零し、軍靴の爪先に落ちる雫も放置したままで、暗い朱色の目を爛爛と輝かせた。
主な出来事
大いなるアイリスの者達蜂起 (ラ・マーチ・フルール)
フランツ・トゥアの凱旋門前で、プロアニア軍が秘密結社を攻撃
ウネッザ、プロアニアから離反(葦の原運動)
ムスコール大公国、旧カペル王国・ウネッザへ物資を空輸