‐‐1912年夏の第三月第一週、エストーラ、ノースタット‐‐
陛下の御心を汲んで差し上げられないのが悔やまれます。陛下はいつまでも平和と友好を求めておられる。ですが、政治とは常に騙し合いの繰り返しであるのも事実でした。認可を得た法案を大切に握りながら、自らの無力さを噛み締めるように首相の元へと向かいます。
各種の施設が整うまで、宮殿は首相官邸としても利用されており、独立した議事堂が完成したのもつい先日のことでありました。
旧迎賓室、現閣議室が使用中となっていましたので、私はその扉をノックいたします。「はいはい」と短い返事をするのは、フッサレル様でありました。
フッサレル様がきょとんとした表情で扉を開けられます。私が頭を下げると、彼は親しい友人にばったり会ったかのような気さくさで、歯を見せて笑って見せました。
「先程の件、陛下より認可を頂きました」
「ノア様、お疲れ様です」
フッサレル様にそれを手渡した私でしたが、暫くぼんやりとした思考に苛まれて、彼のことを見つめてしまいました。
フッサレル様は目を瞬かせ、閣議室の扉を開け放ちました。
「フッサレル様、どうなされた」
室内からアインファクス様の声が聞こえます。フッサレル様は慌てて室内に顔を引っ込めると、「ノア様が悩みを抱えておられるようだ」と、声を掛けられました。
「え、ちょっ……」
私が慌ててお断りしようとするのを、フッサレル様は強引に閣議室に引き込まれます。ジェロニモ様が折り畳み椅子を用意して広げられるのを見て、私も観念して部屋に招かれました。
閣議室は元々、豪壮華麗な迎賓室ですから、絵画や家具の類も大層眩いものでありましたが、最新の電灯を吊るしたシャンデリアや、ブナ製の長机などは、時代の変化をしみじみと感じさせるものでありました。
中央に着座されるのは、リウードルフ様であり、名目上首相となっておられます。彼は穏やかな表情で着座しておられて、以前よりも溌溂としているように見えました。
「ノア様、何かあったのですか?」
私は迷いました。陛下の御気持ちを叶えたいとは思っているものの、陛下には政治的な干渉をする権利が既にございません。仮にここでご相談したとしても、それを議会や閣議で取り入れるべきだろうか……と。
皆様は友人の悩みを聞くような気さくさで構えておられます。私は悩んだ末、水晶は既に陛下の手元には御座いませんでしたが、監視する絵画を一瞥しました。そして、白いブナの木の上に掌を滑らせながら、意を決して相談したのです。
「陛下が、カペル王国での有事に心を痛めておりまして……。何か致命的な出来事が起こってしまったら、プロアニアの兵士を故郷に帰して差し上げたいのだと……」
閣議室はしんと静まり返ります。
それは、当然のことのように思われました。陛下には政治的な干渉をする権利はない、というのも御座いましたが、何より、我が国は非常に微妙な力関係の中に居ります。ムスコール大公国の庇護を受けなければ、プロアニアに抵抗することはおろか対等な会議の席にもまともに立つことが出来ません。その現状を見て、「ムスコール大公国の敵対国」たるプロアニアに手を差し伸べることが、果たして両国の友好に影響を及ぼさないと言えるのか。我が国は、選択を誤ることが出来ない以上、ことを慎重に運ばなければならないのです。
それはつまり、心ばかりでは政治が出来ないことの証左でも御座いました。
家臣一同、いいえ、閣僚一同が、いままさに強い葛藤を抱いていることでしょう。戦場の無慈悲さを知るジェロニモ様も、現実的な視点をお持ちのアインファクス様も、その御相談を聞いて複雑な表情をしておられました。まして、フッサレル様は根っからのプロアニア嫌いでしたから、陛下の御厚意であっても、そう易々と頷くことは出来ないでしょう。
沈黙が、ますます私の心に暗い影を落としました。
「カペル王国の国民が、仮に行き過ぎた制裁をするのであったら、それは彼らにとっても不幸なことです。捕虜への虐待は戦争犯罪となるのですからね」
ジェロニモ様が粛々と答えられます。私ははっと、顔を持ち上げました。
「王国の内紛に口出しするのは野暮でしょうが、人の命が掛かっているとあっては、話は別です。私なら、仲裁に立てるかもしれません」
フッサレル様が人差し指を立てて仰いました。アインファクス様がじっとりとした目つきで、フッサレル様の指先を見つめます。
「我が国が国家である以上、心ではなく国益で物事を考えるべきでしょう。ムスコール大公国との関係に亀裂が生じることを懸念する声はありましょうが、彼の国は心優しき雷の民。人の命を救うに当たって、その心配りを無碍にもしますまい。それに、技術大国のプロアニアに手を差し伸べることは、四ヵ国戦争の先例を考えれば、国益に適うことでしょう」
「アインファクス様は素直じゃありませんねぇ」
フッサレル様はそう言って声を上げて大笑されます。アインファクス様は少々顔を赤らめて視線を外し、口の中で舌を転がされました。
私の眼前に座るリウードルフ様は、迷う様子もなく、静かに微笑んでおられました。
「私は最期まで、陛下の臣でありたい」
思わず視界が歪みます。とめどなく溢れる涙は、陛下のお心遣いが、どれ程人の心を動かしてきたのかをひしひしと感じられるためでした。私は嗚咽を漏らし、深く深く、何度も頭を下げました。家臣一同は互いに目配せをして、椅子に深く腰掛け直します。
「さぁ、これは、時間のかかる大仕事ですよ。早速議題に移りましょう」
リウードルフ様の一声と共に、閣僚たちは、特別法の内閣法律案提出のために、激しい議論を始められたのでした。