‐‐1912年夏の第三月第一週、エストーラ、インセル‐‐
瓦礫の山の中に点々と建物が建てられている。植物も生えない不毛の地の上を、瓦礫を運んで家を修復する住民の姿がある。陽光に晒されて汗を流す人の体には、治ることのない火傷跡があり、そこにはその時着ていた衣服の跡が残っている。
生き残った人々の中にも、正体不明の体調不良により命を落とす者が多くあった。勿論、生還者たちも無事だとは言い得ない。丸裸となった荒野の上に、彼らは小さな畑を作ったが、それさえも功を奏さなかった。
皇帝の出資によって設けられた小さな施療院がインセルの旧商店街に建っている。その中では、今も後遺症に苦しむ人々が病床に伏している。
水分を失った不毛の大地では、全ての努力が無力にさえ思えたが、インセルの人々はその日常に希望を抱いていた。
東から、大きな影が近づくと、市民の一人がそれに気づいて目を輝かせた。
「陛下からの下賜品が来ましたよ!」
瓦礫を弄っていた人々が、一斉に振り返る。ムスコール大公国で中古となった自動車に、物資が大量に積載されていた。人々は嬉々として自動車の元へと集まる。自動車から運転手が降り、配給所ののぼりを掲げる。自動車から荷物が続々と下ろされ、インセルの住民に一包みずつ配られる。医薬品や食料を詰めた大きな袋を抱きかかえ、人々は瓦礫を積み上げた自宅へとそれを運んでいく。老人や、致命的な傷病者の隣人の家にも、荷物を運び込んだ。
自動車が空になると、運転手はのぼりを仕舞い、ポケットの中から飴玉を取り出す。取りつく子供達に飴を分け与え、それを終えると彼は自動車へと戻っていく。彼の自動車と入れ替わるようにして、次の自動車が市街の中心地であった場所へ向かっていく。彼らは自動車に向けて希少な布を振り、最大の歓迎で以て彼らを見送った。
‐‐1912年夏の第三月第一週、エストーラ、ノースタット‐‐
インセルに贈られた支援物資は、侍従長ノアが皇帝ヘルムートの指示に応じて用意した物であった。それは皇帝の為の予算から捻出され、物資の捻出のためにと、ヘルムート自身の生活は結局質素なままであった。
宮殿から水晶越しにインセルの様子を見守ったヘルムートは、不毛の地に復興の兆しが根付いていることを確認すると、慈しみ深く微笑み、安堵した。
激務であった皇帝の仕事は、少しずつ議会と内閣、裁判所へと移行していた。彼はこうした執務とは別の聖務や慰問、勅書や法案の認可などといった職務をこなした。その為、彼の執務室にあった異常な量の報告書などは机の上から片付けられ、オオウミガラスの陶製人形は寂し気に佇んでいた。
ヘルムートは静かにその白い腹を撫でると、堪えかねて静かに涙を流した。
「私にはほかに、何ができるでしょうか?」
苦痛を取り去ることは彼には出来ない。医師を派遣し、献身的に支援をしてもなお、彼はどうしようもなく無力であった。陶製人形は首を伸ばして立っていたが、その黒い瞳に老帝の顔が映る。その瞳は潤み、眉尻は下りていた。
「カペル王国のことも……。どうにかならないものか……」
ベルクート宮の城下では、舞台座へ向かう市民たちの姿がある。少し視線を宮殿の側に動かせば、宮廷動物園に集まる家族連れや科学者などが見える。宮廷動物園に併設された総合生物研究センターでは、動物の排泄物から健康状態の確認をする研究が進められていた。
皇帝は重い懸念に頭を悩ませながらも、穏やかなノースタットを眺め、ゆっくりと眉を持ち上げた。
扉をノックする音がする。
「陛下。議会から法案認可の御署名のご依頼がございます」
侍従長ノアの声であった。皇帝は顔を持ち上げ、目じりを伸ばして笑顔を作る。
「分かった。持ってきてくれて有難う」
扉を開けたノアが、控え目な微笑を浮かべつつ、書類を抱えて顔を覗かせる。皇帝の表情を見て、彼は安堵の溜息を零した。
ノアが丁寧な作法をこなして執務室へと入っていく。ヘルムートは法案を受け取った。
「今の私にはそれほど権限が無いのだから、あまりかしこまらないでおくれ」
ヘルムートの苦笑に、ノアも苦笑で返した。眼鏡を嵌め、ペンをインクに浸す。
「すいません、つい……」
「ははは、私のが移ったね」
ヘルムートは達筆なサインを残す。民事訴訟に関する特別法の法案であった。
「陛下、カペル王国の件について、考えておられたのですね?」
ヘルムートはペンを下ろす。彼は眼鏡を外すと、戦前に見せたような物憂げな表情を浮かべた。
「……プロアニア王国の兵士達も、望んで人を殺してきたわけではない。それは、あの時代では仕方のないことだった。カペル王国の人々の気持ちも痛いほど分かる。私が仲裁を出来ないのがもどかしいよ」
「陛下……」
穏やかな時間が流れる。秋に近づき少しずつ暑さが収まり、市民の装いも涼やかな衣装から少しずつ厚手の衣服に衣替えをし始めている。ペンを仕舞い、すっきりした机上に手を置いていた。
「私は、彼らの為に何を出来るだろうか?」
空には燦燦と太陽が輝いている。ヘルムートは無意味にぎらつく白い光に、目を細めた。
「私も老い先短い命だ。自分のことよりは、未来のことを……私達の子供達やその子供達のことをよく考える。彼らが不和と欠乏、困窮と憎悪の中に無いようにと願っても、世界は変わらずに私達の前に立ちはだかる」
「陛下……」
ノアにはそれ以上の言葉を出せなかった。老帝ほど気苦労に苛まれてきた人物はそうはいない。侍従長として長年仕えた彼ならば、それを察しないことはあり得なかった。言葉を探す間に、老帝はノアにその潤んだ瞳を向ける。零れ落ちそうな小さな雫が、涙袋の上で留まっている。
「ノア……。もしもプロアニアの人々が敗れて、カペル王国に殺戮の危機が訪れた時には、直ぐにでも、彼らを祖国に帰してあげられるように手配して欲しい」
「それは……」
「そうだね。議会の決定が必要だったね……」
皇帝は寂しそうにそう返すと、金製の重い印鑑を両手で持ち上げて捺印を施す。最早権威を持たない、富と力の象徴である鳥が、彼のサインの横に現れた。
彼はそれをノアに手渡した。ノアもそれを謹んで受け取ると、力のない礼を返して、踵を返す。その背中を見送ったヘルムートは、澄み渡る空の向こう側を向いて、目を細めた。