‐‐●1912年夏の第二月第三週、プロアニア王国、アビス2‐‐
教皇宮殿の前では血染めの軍服を着たプロアニア人が無数に伏していた。強大ではないが無数の魔法攻撃と、新兵器の導入によって力を得たアビスの市民たちは、加えて教皇が世俗にどのように干渉してきたのかをよく覚えていた。権力による要求には正当性が必要不可欠であるが、それ以上に、政治への干渉を表に出さない、表に出させないことの重要性をよく理解していたのである。
無線機の破壊や電話線の切断など、用意周到に行われた事前準備は、彼ら自身にとっても大きな賭けであったものの、首尾よく事が運んだ。
彼らは今一度も踏み入れたことのない心の故郷である、壮大な教皇宮殿に初めて入城する。血塗れの体を濯ぎ、憎き悪魔たちの亡骸を穴の中に放り込むと、彼らは神聖な達成感‐‐神々への回帰‐‐を胸に満たして、教皇宮殿を開ける。
そこは彼らからすれば、奇跡のような純白の世界であった。茅葺屋根や泥のにおいや、木材の黒い黴、仄暗い茶色の染みなどはほとんど見られず、漂う埃でさえ窓から射す光を受けて神秘的に輝いていた。
大聖堂と比べれば背も低く扁平であったが、扉の細部に至るまで施された茨やアイリスの装飾は、女神カペラの祝福を受けるにふさわしい華美さを表していた。
人は教皇宮殿の普遍的な美しさに自然と膝から崩れ落ち、涙を零してこめかみを押さえる。朝課の祈りの言葉を唱えながら、自分達の作り上げた芸術の極致に胸を震わせた。
一方、彼らとプロアニアの水兵との間には、捕囚となったプロアニア歩兵がいた。両腕を縛られ、子犬のように縮こまって震える彼らを、アビスの市民は嗜虐的な笑みで眺めた。
教皇宮殿の眩さに失明しないように、聖職者たちの気遣いで頭に被せられた麻袋は、彼らがこれから処分されるのだろうことを暗示しているように思われた。それでも、規律に反する行動はこなせない。立場が逆転し、彼らの上長がアビスの市民に屈服した以上は、結末がどのようなものであれ、彼らはそれに忠実に従う義務があった。人々は怯え切った彼らを視界の外側から蹴ったり、足を踏んだり、時には背中を押して段差から突き落としたりしながら、地下の牢獄へと追い詰めていく。教皇宮殿の開かずの地下牢には、王国の現状さえ知らない神へ対する罪人たちが蠢いているはずであった。
地下室へと入った一行は、凄まじい異臭に顔を顰めた。階下へ至ると、餓死して動かなくなった罪人たちが壁に身を預けていた。プロアニア人は最後まで地下室のことを気に掛けず、彼らに食料も渡さなかったのである。罪人とはいえ壮絶な責め苦に喘いだ彼らに対して、市民たちは同情し、同時に捕縛されたプロアニア人へ対する憎しみも増大した。アビスの市民たちは彼らを縛った縄を思い切り引っ張り、時にはその縄で頸椎ごと破壊しようと強く自分の手で引かれる男の首を締め上げもした。最悪の事態にならなかったのは、単にそこが御羊の御座であるからであって、神聖な場でなければ彼らを嬲り殺しにしていたであろう。それ程、教皇宮殿の奪還は、アビスの市民を誇りと自尊心を満たした。
この暴動に参加しなかった市民たちは、多くがプロアニア人からの報復に怯えていた。プロアニア海軍が英雄のように眩く見えたのも束の間の話で、旧支配者がいつ市壁を包囲するのかと戦々恐々とした。
そうした光景を間近で見た鉄兜は、半目に手を引かれながらも収まらない耳鳴りに喘いでいた。
高射砲の音と、記憶の中に封じ込めていた恐怖を共に追体験する。勝者となった浅慮な人の中には、プロアニアの兵士を殴打し、下賤な言葉を浴びせて凌辱するものもあった。町の光景はカーニヴァルと戦争が同時にやって来たかのような狂騒となり、一所に固まったプロアニア兵の遺体や、市中を馬に曳き回されて肉が露わになったプロアニア兵の喘ぎ声で溢れた。その阿鼻叫喚の中を、半目は鉄兜の手を取って進む。分厚く硬化した手に引っ張られて、伸びた服の裾が震えていた。
敗戦の頃から残ったままの、焼け落ちたアビス大聖堂の鐘楼が、皿の中に脂を浮かせたまま沈黙している。この鐘楼に登り、皿の上に脂と火を挿す聖職者があった。弾痕と膨大な量の裂傷を受けて倒れる軍服の男達が横たわる広場に集い、アビスの市民は彼を見上げて歓声を上げた。
「不滅の火が戻ったぞ!」
「神よ、わが同胞を守り給え!」
「ようやく取り戻したんだ……!」
人々が神に祈りを忘れていた所に、新たな光明が差し込む。遠くから響く歓喜の声と懐かしい焔を背に受けて、鉄兜は呆然とその狂騒を眺めた。
「やめろ」
プロアニア兵専用の、政府公認の娼館から、娼婦が続々と連れ出される。アビスの市民は魔女でも扱うように彼女たちを乱暴に放り、剃刀を取り出すと、その髪を削ぎ落していく。
「やめろよ……」
勝者の哄笑が響き渡る。地面に投げ出され、腰に馬乗りにされた娼婦達の嘆きの声がそれに混ざった。
綺麗な金髪や艶やかな茶髪、異国情緒溢れる黒髪が地面の上に落ち、互いの毛先を絡めて弄り合う。丸坊主になった娼婦のこめかみに、指先の代わりに銃口が押し当てられる。
「こんなの、あいつらと、同じじゃないか……」
市民たちは次々と、道端に掘られた側溝に、冒涜者達を放り込んだ。