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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
氷輪のイカロス
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‐‐●1912年夏の第二月第三週、プロアニア王国、アビス‐‐

 煤で汚れたアビスの教皇宮殿を磨くと、白い壁面が露わになる。占領統治以来の窮屈だが穏やかな日常は、アビスの地でも唐突に奪われた。


 ペアリスの市民蜂起を皮切りに、大いなるアイリスの者たちが一斉検挙されると、アビスで鬱屈とした日々を送っていた労働者たちも同様に、手近な武器を抱えて蜂起を開始した。彼らはリエーフの学生のように利発で聡明ではなかったし、ペアリスの市民のように勇敢でもなかった。神の倉は落ち、神の不在は証明されて、アビスという町は魂の抜けた肉体のように、その場所に横たわっていたからである。


 しかし、ウネッザからナルボヌ経由の航路は、必ずと言って良い程アビスを通る。抜け殻のようなこの町で俄かに広がっていたナルボヌの武器商人の噂は、次第に現実のものとして、原住民たちにだけ口頭で広められた。


 教皇宮殿やアビスの司教座教会など、集会場の警備を続けていたプロアニアの歩兵達は、突然の原住民たちによる武装蜂起によって一瞬で制圧されてしまった。それ程唐突で、誰一人内心を吐露せずに行われてきたのである。


 教皇宮殿にある無線機の故障が蜂起の合図となった。先ずアビスの市民は電話線を断ち、武器商人からそれぞれに買い取ったエストーラ製の古い銃剣を握る。老人であればそれを茶色の頭陀袋で巻き、杖のようにして歩いてみせた。

 そうして都心を守るプロアニアの歩兵達を手際よく殺傷し、ある者が水門を開けてプロアニア海軍の上陸を補助する。


 綿密に練られた迅速な武装蜂起はものの十数分で都市の殆どを、ほぼ無傷のままで制圧した。プロアニアの歩兵達は海軍に追い立てられて教皇宮殿の中へ立てこもった。


 その頃、教皇宮殿では、半目と鉄兜が暢気に壁の掃除をこなしていた。

 日常と地続きの政変に気づいたのは、丁度彼らがこびりついた煤を水と洗剤で洗い落している時であった。


 教皇宮殿に駆け込んでくる歩兵達の慌てふためく姿を横目に見て、鉄兜が独り言のように呟いた。


「なんだか、騒がしいな?」

「お、お祈りか?」


 半目は鉄兜につられてゆったりと宮殿の入り口を見つめる。武器を背負った兵士達が、続々と、宮殿へと避難していく。


「プロアニア人が?違うだろ。なんかもっと、こう……大層なことだろ」


「大層なことって何だよ?」

「分かってたら言葉を濁さないだろ」


 半目は逃げ込んでくる兵士を横目で見つめながら、「ふぅん……」と、無関心な声を上げた。

 暫く経つと、兵士達が外の様子を確かめに建物から出てくる。彼は半目と鉄兜を見ると警戒心を剥き出しにして武器を構えたが、暢気に壁の掃除をする二人組の無関心な様子に即座に武器を下ろした。

 最後の汚れが綺麗に洗い流されると、半目は大きく背伸びをして、艶やかな笑みを零した。


「綺麗になったなぁ」

「殆ど俺が磨いたんだけどな……」


 鉄兜が脚立を折り畳み、片づけを始める。白い壁はすっかり建造当初の美しさを取り戻し、丘の上から差し込む陽の光に水滴がキラキラと輝く。それを満足げに見つめる半目の頭を、鉄兜が小突いて現実に引き戻した。


「報告に行くぞー」


 鉄兜に手を引っ張られながら、半目も兵士の所へ向かう。近づくにつれて、その一種異様な雰囲気に違和感を覚えた鉄兜は、小声で半目に耳打ちした。


「ほんとになんかあったのか?」


 半目は質問には応じずに、教皇の馬車が往来していた強い傾斜のある坂の上をぼんやりと見つめている。


 やがて彼は、鉄兜の袖を引っ張って、兵士の反対方向へと歩きだした。


「おい、報告がまだだぞ!」

「いいから!やばい雰囲気が……」


 半目が振り返るのとほとんど同時に、教皇宮殿の玄関前で爆発音が起こる。目をひん剥いて硬直する鉄兜を、半目は鋤か何かのように引っ張って駆け出した。頭上から続々と、石のようなものが落ちてくる。それは数秒後に炸裂し、先程洗浄したばかりの宮殿の壁を木っ端微塵に吹き飛ばした。


「ああああああ!」


 鉄兜の脳裏に、激しい戦場の惨禍が蘇る。ぼろぼろと涙を流しながら発狂する鉄兜の袖を引きながら、半目は片方の手でポケットの中を探った。そこから古い耳栓を取り出すと、彼は足を止めて鉄兜の耳に耳栓を捻じ込む。

 取り乱した友人をおんぶし直し、半目はどこからともなく投げ込まれる手榴弾の落下地点を直感で回避し、アビスの大聖堂方向へ向かう坂を駆け上った。

 爆発音に紛れて、機関銃や小銃の激しい音が響き始める。唐突に萌える棘付きの蔦に足を取られながら、彼は何とか丘の上へと駆け上った。


 友人を土の上に下ろすなり、半目は疲労のあまりに地面に大の字で寝転がった。汗だくの額を拭い、視線を横に動かすと、大聖堂ではプロアニアの水兵達が双眼鏡を抱えながら教皇宮殿を見下ろし、その向こう側には銃剣を提げた市民たちが手渡された手榴弾を教皇宮殿目掛けて投げ込んでいる。

 半目は何とか身を起こし、ようやく落ち着きを取り戻した鉄兜の視界から、血眼の市民たちを隠すように片膝立ちをする。彼は肩で息をしながら、鉄兜ににっと笑い返す。


「死ぬかと思ったぁ」

「悪い、俺……」


 鉄兜がそう続けようとするのを、半目は笑顔のままで遮る。


「言いっこなしだ。ほら、家に戻ろう」


 そう言って彼は手を差し伸べる。鉄兜は充血した目を益々潤ませながら、その手を強く握り返した。


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