‐‐1912年夏の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
ムスコール大公の宮殿には、歴代で最も貢献した女宰相、ロットバルトの像が収められている。大公が君臨に徹し統治を放棄して長らく、公国民が優秀な女宰相の晴れ姿を見る機会は、全くなかった。そこに特別な理由などなかったが、誰もが最終的には宰相職に男性が収まっていくことに抵抗をしてこなかったのである。
アーニャ・チホミロフ・トルスタヤの演説は、短い夏の訪れたムスコール大公国の人々に、いくらかの衝撃と変化を齎した。『鉄の女・アーニャ』の護国への覚悟は、不思議と彼らを安堵させ、今度の支配者はその過激さに反して公国民から支持を得たのであった。
大公国の、世界の盟主としての役割をここに取り戻すために、人々は演説の明朝、女宰相に充てて私書を投じた。満載の私書箱を開けた彼女の側近達は、その内容に目を通す時、先ずは驚き、やがて感動し、そして決意した。
アーニャが到着すると、宰相の私書箱に届いた高価な物から安価なものまでさまざまな大量の封書を目にし、やはり側近達と同じ表情をした。彼女が手紙を開き、国民の声を読み取ると、賛否両論ある中に、公国民の共通した願いとして、平和と友好が読み取れた。アーニャは一つ一つの手紙を丁寧に折り畳み、静かに鞄の中に収める。やがて議会の時間がやってくると、その手紙を鞄の中から覗かせながら、議席に着いた。
与野党双方がアーニャの鞄から覗くものを見つめている。彼女は鞄を静かに下ろすと、それらを自分の席に一つ一つ並べ、議長席を向いた。
何かを察したユーリーは、静かに視線を外す。呆れたような笑みからは、静かな諦観が感じられた。
議会が始まるなり、臨戦態勢を敷く野党議員たち。質問席に次々に現れては、アーニャが戦争を推進していることに非難を挙げようとした。
ある重鎮が質問席に着く時、議席の後方でユーリーはアーニャを試すように見上げた。肘をつき、相手を見定めるように余裕のある笑みを浮かべていた。
「アーニャ閣下のお話を整理いたしますと、プロアニア王国の海軍が法律上は違法な移民であるウネッザ人を受け入れて住まわせ、自国の正規軍へ対抗しているということになります。これは重大な侵犯行為であると同時に、看過し難い非倫理的行為、裏切り行為であります。そのような行為に対して支援をするということ、食料を空輸し、違法な移民を支持するということは、国際的にも許されるべきではないと存じます。論理的に正当な支援とは、到底思えません。この問題について、ご意見を頂けますでしょうか」
あくまで理路整然とした、落ち着きのある声で質問を終える。議員はそのまま質問席の椅子に掛け直し、顎を引いてアーニャを睨んだ。
議場には張りつめた緊張感が漂っている。与党でなくても、アーニャが国民に一定の支持を得たことを承知しているからだ。彼女を支持することは、プロアニア王国と本格的な対立をすることでもある。アーニャは受け取った手紙を見つめ、一つ息を吐く。やがて視線を上げると、応答席へと降りて行った。
与党議員たちの視線が彼女を追いかける。凛とした佇まい、年を負うと共に醸し出される独特の風格が、彼女の束ねた髪がふわりと舞い上がる余韻となって留まる。彼らは白椿の残り香のような、微かな残影に釘付けになった。
「プロアニア王国へ対する国際的な支持はそれほどまで落ちている、そう言う事かと存じます。我が国は、我が国が信じる正義に悖る行為を繰り返してきたからです。確かに、ウネッザ人の帰国は、法律上は不当な占拠であることは承知しております。しかし、ウネッザが彼らの故郷であることは一度も変わったことがありません。故郷を奪われ、帰りたいと願うこと、それは万国共通の思いであると思います。はじめに侵略攻撃をしたプロアニア王国への抗議の意思も当然にあります。規則が必ずしも、正義に適うわけではないのです。どうかご理解、頂ければと存じます」
彼女が言い終えると、質問席の議員が静かに立ち上がり、議席に戻った。
会議はおおむね順調に進んでいく。反対意見を述べる方が却って人道的でないという雰囲気が、アーニャの会見によって国民に植え付けられていたのである。投票までもスムーズに進められ、議長も肌艶の良いうちに、閉会の合図を出来た。
閉会の合図をすると、アーニャは挙手をする。議長は不思議そうに首を傾げ、アーニャを指名した。
「アーニャ君、どうしましたか」
「議長、最後に、一言だけ挨拶をさせて下さい」
「わかりました。どうぞ」
議長はアーニャの席にマイクを運ぶように指示を出す。書記官が席に着きなおし、アーニャの元にマイクが届けられる。彼女は起立し、議員に深いお辞儀をした。
「1906年からの6年の任期が間もなく終わり、来週には皆様も選挙活動に明け暮れる忙しい日々が待っておられることでしょう。思えば短い時間でしたが、実りある議事であったと思います。歴史的に異例の内閣組成。いいえ、あの選挙ですら、異例の選挙でありましたね」
彼女は、左右両翼に囲まれた、中立の議員たちに視線を送る。労いの意思が籠った、柔らかい視線であった。
「世界は長い戦争の歴史を重ねました。私達の生きた時代はまさに、激動の時代として語り継がれることでしょう。その中で、我が国は常に平和であり続けた」
彼女が左の議席に視線を送る。際立った美しさのユーリーが、脚を組み替えて、余裕の表情で微笑みを返す。彼女が彼にむけて口角を持ち上げると、彼は恥じらうように手を顔の横で振った。
「しかし、それは、私達だけのための平和でありました。戦争の惨禍は否応なく世界を蹂躙し、死屍累々の山の上で、狂おしい程の犠牲を払って繰り広げられました。それは、私達の平和が、世界の平和と結びつくわけではないという、確かな事実でありました」
彼女は右の議席へと首を回す。腕を組む屈強なルキヤンは、ただ目を瞑り、顎を引いて言葉を待っていた。
「平和の幻影に取り憑かれた私達が生み出してしまった怪物こそが、シリヴェストール・アバーエフ・マスカエヴァ閣下だったのでしょう。巷では、私は鉄の女、などと呼ばれているそうです。戦争のための準備を、ここまで突き進めてまいりましたからね」
「ですが、この力は、倒すための力ではありません。我が国に戦争の惨禍が訪れることのないように、そして、世界の平和を願う私達の真の目的を守らんがための力です。私は議席を降りるつもりでいます。我が国が、一つの国家として、平和のために戦えるように布石を整えたつもりでいます。あとのことは……専門家の皆様にお任せします。この国の、国民のための政治を、どうか、守ってください」
アーニャはそこまで言い終えると、深く頭を下げた。万雷の喝采が彼女へと向けられる。左右両翼を埋める、「お疲れさまでした」という声。それを旋毛で受け止めながら、アーニャは良く磨かれた革靴の爪先に、雫を落とした。
そして、ゆっくりと頭が上がる。やり切ったという満面の笑顔と、化粧ごと洗い流す大粒の涙が、頬を伝い、静かに滴り落ちていく。翌週は、どこよりも長い一日が、公国民を待っていることだろう。