氷輪のイカロス
‐‐1912年夏の第一月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐
ラジオ放送を付け、聴衆の一人となっていたベルナールは、それでも調査の手を止めることはしなかった。技術的な威信を示すことが、プロアニアに対する牽制になることを、彼自身確信していたためである。宰相の立場は最後まで変わることは無かったのだろうが、それでも彼女が少しでも宇宙開発について関心を抱いてくれたことは、彼が開発を進める原動力となった。
アーニャが相互確証破壊という言葉を口にする。ベルナールは思わず手を止めて、大学の古い会議記録に残されたその文言を思い出した。
ムスコール大公国を代表する女宰相、ロットバルト卿によって秘密裏に進められていた平和兵器の開発は、この理論を現実に齎すことで平和を維持するためであった。どちらか一方が平和兵器を保持している状況は、彼女の理想から最も逸脱する状況であったと言える。それがシリヴェストールの時代に開発されてしまったことが、単純に不幸であったのだろう。それを開発してしまったベルナール自身が、自嘲的にそんなことを思った。
記者団のどよめきがラジオの中で起こる。宇宙飛行に必要な技術の特許獲得者をリストアップする彼は、そんな古い‐‐理論だけであればプロアニアとムスコール大公国が接触した四ヵ国戦争直後からの‐‐構想に、いちいち驚愕することはしなかった。
実現できるとすれば、その力がインセルという都市の犠牲によって示され、自国と敵国が所持するという状況に至った今しかないのだから、単にロットバルト卿の悲願が達成される絶好の機会であったというだけだろう。
コーヒーも冷えるほど、特許所持者を確認するために借り受けた膨大な認可証を捲り続ける。ようやく見つけた目的物を取り出してメモをし、最後の工程を終えた時、ベルナールは痛む腰を思い切り伸ばし、達成感に浸った。
カップに手を伸ばし、もう湯気の立っていないそれを覗き込んで、自らの努力を労わる。勿論、その報酬はこの温いコーヒーであり、あまりにも味気ない報酬ではあった。
喉に流し込んだコーヒーの、不思議なほどのコクの深さに驚く。年甲斐もなく労働の喜びを噛み締めたベルナールは、それが最高級の嗜好品であるかのように、満足げに息を零した。
至福の時間を暫く過ごし、コーヒーの余韻に浸って再びラジオに耳を傾ける。アーニャが現実を突きつけて、記者団が動揺する様は、生粋の記者嫌いである彼には爽快であった。背もたれにもたれ掛かり、愉悦に浸る。無意味な勝利によってますます温いコーヒーが旨くなる。彼は口の中をコーヒーで浸し、最高の幸福感に身を任せた。
記者会見が終わり、彼はラジオの電源を乱暴に止めた。次の仕事を始めるために、特許獲得者の表を改めて確認する。ここからは特許所持者との交渉という、面倒極まりない仕事であった。
金のかかる問題ほど、長引くものはない。彼はそう思って、特許獲得者名を上から下まで順番に目で追いかけた。
そして、思わずその目を止めた。
「まさか。そんな偶然があるか……?」
特許取得者の名前の頭文字が、一つのアルファベットで綺麗に整列している。戸籍上の住所の頭文字も同じ。それどころか、住所も名前も全て同じ。
偶然であるはずがなかった。「月面着陸に必要」という点を除いて、無作為に探し当てた様々な分野の、数多ある特許の獲得者が、全て同じなどということがあるだろうか?そのような天才はいるはずがない。とすれば、金で買ったか、その技術を複数の共同研究者に頼って特許出願の代表者になったかしかあり得ない。
利益のためであれば、これほど他分野に触手を伸ばす必要は皆無であろう。そもそも、共同研究や出資者となったならば、なおのこと金が要る。これだけの分野の研究に、利益のために「必要性に駆られて」出資を行うなどということは全くあり得ない。
そうであるとすれば、考えられる目的は一つしかなかった。
答えに、辿り着いていた。そうとしか考えられなかった。
科学研究の大家、平和兵器の開発主任、名門ムスコールブルク大学の名誉教授であったベルナールが、月面着陸のために必要だと判断した二百余の特許。
その特許取得者の殆ど全てに、「バニラ・エクソス」という、男の名前があった。