‐‐1912年、春の第三月第三週、プロアニア領ウネッザ‐‐
受話器を置いた水兵は、徐に振り返り笑顔を見せる。彼の後ろには鍛錬用のマットが敷かれ、訓練用の機器も多く置かれていた。
それらを跨いだ先で、エーリッチ・シュミットが勇ましい敬礼をする。それに対して、水兵は胸を張って敬礼を返した。
自分達の側に義があると、そう確信していた両者は、元首官邸であったその場から離席して、聖マッキオ広場へと向かう。エントランスにある黄金の船は船首を天に向けて伸ばし、きらきらと輝いていた。
黄金の船の祝福を受け取り、分厚い胸板を張り出して歩く姿は、過剰なまでの自信に溢れていた。そこで運命が決したとでも言わんばかりに。
聖マッキオ広場に戻ると、違法滞在をするウネッザ人が粛々と仕事を進めている。ナルボヌ経由の武器の輸送や、漁業への参加、柑橘類の栽培など、初歩的な生産が主であったが、既に特産品の硝子製造なども、ちらほらと再開の目途が立ち始めていた。
エーリッチが彼らに敬礼をすると、ウネッザ人も面白そうに敬礼を返す。生粋の商人たちの商売柄放たれる愛想のよさに、実直な海軍相は既に取り込まれていた。
そして、聖マッキオ広場にも面した、大運河には、戦艦や巡洋艦などが集結していた。カペル王国で始まった学生運動に端を発した蜂起は、彼らを勇気づけるだけでなく、離反を始める頃合いとしても丁度良いことを告げていた。
アーカテニアから届けられる手紙や、エストーラの海軍から託される数多の情報が、プロアニア動揺の真実をまさに告げている。
エーリッチは最も大きな戦艦に乗り込むと、水深の深い入り江に浮かぶもう一つの艦船にも帽子を振って挨拶をした。
それは扁平で広い甲板を持つ船であり、前後左右に非常に大きな空間がある。その上部に兵器が乗っていれば単なる大きな戦艦に違いないのだろうが、管制塔以外には武装は見られなかった。
機銃と大砲を幾つも装備したエーリッチの戦艦と比べれば、本当に戦意を感じられない簡素な作りである。しかし、そこに乗り込んだ小さな客人は、海軍の真実の強さを示すことになるだろうと思われた。
小さな客人とは、エストーラの航空機を改良した、武装した航空機のことである。この、プロアニアの技術によって洗練された快速の隼が、航空母艦には複数機格納されているのである。エーリッチはその様子を初めて見た時に、「子を身籠った、あるいは養う母のようだ」と感じた。そこで、航空機という子を船上で養うための最低限の武装とタンカのような巨大な給油槽を擁するそれは、航空母艦と呼ばれた。
航空母艦からは大きな旗が振り返される。それは、離陸のための船体の末端を視覚的に示すように備え付けられた大きな旗であり、航空機の離着陸を補助してくれる。航空母艦に乗り込む船員は、武器を扱う水兵よりはこうした非戦闘員が多く、そうした点でも非常に特殊な船と位置付けられていた。
戦艦から、エーリッチが身を乗り出す。聖マッキオ広場に集まった、数は少ないが勇敢なエストーラ人達は、プロアニア王国の水兵たちの伝統を尊重して、白い帽子を振ってエーリッチを見送った。エーリッチは彼らに敬礼で答え、前方の指差し確認を終えると、甲板に集合した水兵達に向かって、空を割らんばかりの声を張り上げた。
「私達は、私達の信じる正義に従って、大いなる戦いに挑む!錨を揚げろ!」
「おおおおおおお!」
大きな掛け声と共に、船舶の停泊を助けていた錨が揚げられる。大きな汽笛が海原にこだまし、白い帽子を振るうウネッザの人々に向けて、精悍な顔つきの水兵たちが敬礼をする。
大運河から伸びる水深の深い場所を先導する蒸気船に導かれながら、船団は航空母艦と合流を果たす。航空母艦を守るようにその周囲に巡洋艦が着き、戦艦を先発としてカペル王国へ向かって出立した。
遠ざかっていく船の威容は確かに、何者かにとって希望であっただろう。ウネッザ人は離れていく船をしかと見届けながら、彼らの航海の成功を祈って、大運河の入り江に黄金に塗った鉄の指輪を投げ入れた。指輪は小さな波紋を作って海へと沈んでいく。海の精霊と結婚を交わした古の潟の住民達は、遠い未来の人々の願いに、何を思うのだろうか。
凪いだ海に浮かぶ黒い艦船の影が遠ざかる。二度も戻るとは限らない、長い航海のことを思い、人々は、それぞれの仕事へと戻っていった。