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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1912年
334/361

‐‐1912年春の第三月第三週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐

 食糧供給の遅滞が深刻化すると、プロアニア王国内には稼働を停止した工場や、葬儀をされずに放置された貧民の遺体を回収する業者が現れ始めた。労働者の生活環境は以前の劣悪なものに変わり始め、社会不安が以前にも増して深まっていく。宮殿へ行くまでの道中も、霧深い街路の中にひっそりと影が佇むような、以前の息詰まる光景に元通りした。

 学生運動を起点として始動した大規模な独立運動は、カペル王国の各地に飛び火し、遂にヴィルヘルムの恐れる無秩序が開花してしまった。


 アムンゼンは車両が駐車場に着くなり、停車を待たずに車を飛び出し、王の待つ上級会議室まで疾駆する。この緊急事態だというのに、海軍大臣の目立つ車は未だ到着していなかった。


 バラックの宮殿を表情も崩さずに疾走するアムンゼンに、すれ違う家臣や従者たちは道を譲る時間も与えられなかった。彼が横切り、それに振り向くと、そこには空気をかき分ける残影だけが残り、ただ目を瞬かせるしかなかった。


 彼がノックもせずに上級会議室に入ると、赤いランプの下でヴィルヘルムが真っ赤な瞳を充血させて待機していた。眉間には苛立ち以上の焦燥が深く刻み込まれ、額に浮いた青筋を隠すように前髪の上に鉄兜を深く被っている。赤色を反射する鉄兜の尖った角には、黒ずんだ錆が点々とこびりついている。

 彼はアムンゼンが到着するなり、この髄一の家臣の胸倉を掴んで引き寄せた。

 宰相閣下の瞳一杯に怒りの表情が映る。


「核だ。もたもたするな。全て破壊して黙らせろ」

「出来ません」


 しかしアムンゼンは、きっぱりと、表情を崩さずに即答した。王は頭を鷲掴みにし、宰相の顎を机の上に叩きつける。骨が砕けるような鈍い音と共に、アムンゼンの口から血が零れる。温くねっとりとした鉄の味を感じながら、宰相は滔々と述べた。


「以前申しあげた通りです。核兵器による汚染は我が国の飢餓を促進する。あれは他国に向けられるべき決戦兵器です」


「ならばすぐにでも奴らを黙らせろ!王侯貴族でもない弱小に何をそんなに手こずっている!」


「……平民(かれら)は強いですよ、陛下」


 アムンゼンは静かに答える。頭部で拳銃の安全装置が外された音を聞いても、ただ目を瞑るだけであった。


 激しい呼吸音が彼の頭上から降り注ぐ。血眼になった瞳が揺れる。真っ赤な非常灯は破滅や血を想起させた。


「失う物がある者たちは、簡単に決断が出来ないのです。そこに、隙が出来る。ですがもし、敵が、失う者がない相手だとしたならば、単純な暴力か最高の利益で黙らせるよりほかにはない。そして、これははっきりと申し上げておきますが、我々プロアニア人は、単純な暴力ではどの国よりも弱い」


 神は最後まで、彼らに何も与えなかった。人の理によって神を越えようと足掻いたのが、他ならぬプロアニアの歴史であった。

 銃火器のない時代、カペル王国の脅威に対抗する手段は、エストーラにおもねるしかなかった。

 銃火器を得てから、皇帝から独立を勝ち取るには、こじんまりとした陣を敷き、騎兵の圧倒的な機動力を、間断ない発砲の爆音で阻害することしかなかった。

 機関銃を得てからは、辛抱強く敵に弾幕を打ち込むようになった。それでも、それほどの科学力を得てもなお、カペル王国は脅威であり続けた。

 プロアニア王国とは不完全で無力な人々の集まりであった。それが強さの源泉であり続けた。神に愛されなかった人々が、神にも近きその冠をもぎ取ることが出来たのは、自分達は常に奪う側であって、失う物が一つも無かったためだ。餓死を選ぶか戦死を選ぶか、それを選ぶだけでよかったためだ。


 安全装置を外されたはずの拳銃は、しかし火を噴くことは無かった。荒い呼吸が旋毛に降りかかる。アムンゼンは口の中の温いものを吐き出し、王の手首を掴んだ。


「陛下。カペル王国の労働力を根絶やしにして、我が国の平安が崩れ落ちて、戦う覚悟はございますか」


 ヴィルヘルムが押し黙る。彼の脳内には、合理的な計算と不合理な人間的感情の二つがあり、いずれもが同じ回答を指し示した。


「……カペル王国人に人としての権限を与える勅令を出し、それでも聞かないのであれば、徹底的に破壊せよ」


 ヴィルヘルムは頭から手を離す。アムンゼンは青黒く変色した顎を持ち上げ、普段より口を小さく動かして言葉を発した。


「賢明なご判断です」


 アムンゼンは短く言い切ると、電話機から受話器を取る。ダイヤルを回し、通信社との通話を介さずにペアリス総督のレノー・ディ・ウァローに電話を掛けた。


「レノー閣下。お世話になっております。緊急事態なので、手短にお伝えいたします。プロアニア王国政府としては、今回の反乱に対して労働資源への人権の『貸与』という形で沈静化を図ろうと結論付けました。……はい。勿論、それに応じないのであれば、あらゆる物理的な手段で応じることとなります。先に、避難の御準備をなさって下さい。はい、よろしくお願い申し上げます」


 アムンゼンは物分かりのいいレノーとの通話を数分で切り上げると、ヴィルヘルムに向き直った。苦々しい表情で泣き崩れそうなヴィルヘルムに対して、冷徹な宰相は会釈をする。深紅の瞳は赤い灯りの中に溶け込み、無色と混ざり合って白目との区別を曖昧にさせた。


「歴史は、人の歴史は……残酷だね、アムンゼン」


 ‐‐何を今更‐‐


 アムンゼンは殆ど崩れ落ちそうな国王と対峙してもなお、冷静に現状を見つめていた。

 カペル王国民が合理的な判断をする人間であれば、この適切な妥協は飲む可能性が高い。犠牲者の増加は、即ち現地人という種の破滅へ向かう近道だからである。理屈の上ではそうであり、かの平和兵器やそれ以上の威力を持つ数多の新兵器を見せつけられているならば、自分達にそれが向けられないように慄くべきである。

 占領統治以後、プロアニアの食料事情を相手には明かしていないのだから、奪われた食料も贅沢品として解釈されているはずであり、その贅沢品を大量に接収するプロアニア王国に対して、彼らが張子の虎を恐れるだけの理由は明白にある。アムンゼンは良い報せが来ることを期待しながら、ヴィルヘルムの暴走を堰き止める手段を検討する段階に入っていた。


「そう言えば。エーリッチ・シュミットは来られていないのですね」


「あいつには期待していない。その辺で遊んでいるんだろう」


 ヴィルヘルムは怒りを露わにしながら投げやりに答えた。アムンゼンは疼く顎を静かに引き、疑い深く目を細める。彼は王の手元にある電話機の受話器を再び持ち上げた。


 ウネッザ本島にある総督府‐‐即ち旧元首官邸‐‐へ発信する。数度のベルが耳元でなり、やがて水兵の喧しい返事が返ってくると、アムンゼンは低い声で尋ねた。


「お勤めご苦労様です、アムンゼン・イスカリオです。エーリッチ・シュミット閣下はいらっしゃいますか?」


「カンツラー、現在、エーリッチ閣下はゲンテンブルクに向かっております。申し訳ありませんが、不在となっております。ご用件をお伺いしましょうか?」


 アムンゼンは目を見開く。珍しく動揺する腹心の姿を認めて、ヴィルヘルムは弱り切った心臓がバクバクと鼓動するのを感じた。


「いえ、結構です。そういう事であれば、後に伺う機会もありましょう。お忙しいところ失礼いたしました」


 アムンゼンは静かに受話器を置く。彼は猫背のまま王に向き直る。そして、床に膝を着き、地面に額をついた。


「私の不徳の致すところでございました。どのような処分も、甘んじて受け入れる覚悟でございます」


 アムンゼンの所作を見て、ただならぬ雰囲気を感じ取ったヴィルヘルムは、胸の内からどす黒い感情‐‐人はそれを絶望という‐‐が湧きだすのを感じて、万斛(ばんこく)の涙を流した。


「良い。君を許そう」

「私が許せません。国家に対して、何事かの償いをしたく思います」


「では、給金を全て私が貰い受ける。それでいいだろう」


 アムンゼンはその、殆ど崩れていない表情を持ち上げた。眉間にひたひたと雫が滴り落ちる。雫は頬を伝い、青黒い顎に集まって地面へと落ちていく。雫を保った顎先が痛覚を刺激され、それが耐え難い疼きとなって彼の脳へと伝わった。


「陛下。万策尽きた暁には、私の命で以て貴方を救います。贖いには不足でしょうが、この命を、プロアニアという種の繁栄のために捧げさせて下さい」


「そんなものに何の価値がある?合理的じゃないな」


 ヴィルヘルムは溢れ出す涙を留める手段を知らずに、それを垂れ流したままに空気に晒した。ただ、感情に反して、口角は持ち上がり、不気味に爛々と輝く赤い瞳も普段の落ち着きを取り戻していた。


「その時は、プロアニアという秩序を世界が求めていなかった、というだけのことさ。僕や君のような個人が対抗できるなどと考える方が愚かなことだよ」


 ヴィルヘルムはそう答えると、上級会議室を後にする。アムンゼンは再び立ち上がり、僅かに視線を下ろしながら、徐に席に着きなおした。


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