‐‐●1912年、春の第三月第二週、プロアニア、リエーフ‐‐
旧カペル王国において、一際虐げられてきたのは科学者達である。彼らは常に貴族の政敵であり続け、脅威であり続けた。護国の基礎を自分たちに依存させることでその地位を保ち続けた貴族達にとって、記憶を伝承させる文字は時に脅威であり続け、それを紐解く学生は地位を脅かす存在として時折迫害されてきた。
しかし、科学も魔術も伝承も残らないわけではない。それらを守ったのは、図らずも写本を繰り返した聖職者たちであった。代々の聖職者たちが書いた蔵書群を守るリエーフのサン・チアーズ大修道院には、繊細で隙間のないミニアチュールが描かれた彩色写本が多く残っている。プロアニアの兵士達はこの貴重な文化財を知ることも関心を抱くこともなく、サン・チアーズの大修道院という集会場となる危険性の高い建物を、ただ事務的に守っていた。
蔵書を覗く人など居らず、旧い写本の管理は随分と長い時間放棄されていたため、写本を集めた建物の中で一般公開されていた大古典の類は、水分を失い乾ききっていた。四隅を振れればパラパラと砕けそうなほど、書籍はその神秘性を唾棄された物品として安置されている。神の倉はがらんどうの倉庫となり替わり、そうして長きに渡って支配され続けていた。
その日、プロアニア兵達がいつものように大修道院の警備をしていると、労働者たちが仕事へ向かう街路から、微かに、人の声が耳へと届いた。その声は幾重にも折り重なって響き、徐々にチアーズ大修道院へと近づいていく。違和感を覚えた聡明な兵士達は、教会の扉から離れて道へと繰り出していく。
そこには、襤褸布を纏ったカペル人達があった。
意味の通じない言葉を聞き、兵士は事務的に銃を構える。対する丸腰の現地人たちは、むしろ銃口に吸い込まれるように、堂々たる振る舞いでチアーズ大修道院へと近づいてくる。
カペル人達が足を止めることを拒んだと判断すると、兵士は銃の安全装置を外し、最後の警告を叫ぶ。現地の言葉で何事かを訴える現地人たちはその足を止めようとしない。
もはや粛清は不可避であった。兵士はじっくりと狙いを定めて、小銃の引き金を引く。ぞろぞろと迫り来る烏合の衆は、丸腰に小さな旗を掲げている。手始めにはためくそれに向かって一撃を放つと、現地人たちはびくりと身を竦ませ、そのまま前進を続けた。
「不審な団体が接近中。応援を願う」
無線機に声を掛けつつ、次の一撃を確実に人間に撃ち込んだ。
甲高い銃声と共に、一人が倒れ伏す。人の波はそれを踏み越えながら、ただひたすらに行進を続けた。
再び銃口を向けたその先に、黒い帽子と黒い服の若い男がいる。よく見れば、カペル人特有の装いに混ざって、こうした人物がちらほらと見えた。
「学生……?」
意味の通じない言語を語り掛けながら、若者たちの群れはサン・チアーズの大修道院へと向かう。兵士は何発も発砲し、何人もの学生を屠ったが、それでもその歩みを止めることは叶わない。装填の時間も応援の到着も間に合わず、ただ前進するだけの行進が、その兵士を飲み込み、押し倒し、サン・チアーズ大修道院へと侵入した。
それを目撃した警備兵にとっては、恐怖でしかなかった。理屈の通らない奇妙な軍勢が、丸腰でずんずんと迫って来るのである。いくら発砲しても効果はなく、ただ前進を続けるばかりであった。
大修道院が飛び梁を広げて学生達の前に佇んでいる。学生は武器を振るう兵士達を単純な物量による暴力で飲み込み、踏み潰し、リエーフの象徴でもあるその礼拝堂へと遂に侵入を果たした。
扉を開き、ステンドグラスの光が降り注ぐ礼拝堂に入ると、その暗い床の上に色彩の豊かな明かりが降り注いでいた。学生達は建物の中に入り、扉を厳重に閉ざすと、降り注ぐ光の下に赴き、写本を納める箱が安置された説教台の前に跪く。彼らは聖歌を口ずさみながらはらはらと涙を流し、車輪の女神と車輪に描いた模範人生集を映したステンドグラスから降り注ぐ光の上で祈りを捧げた。こめかみを押さえ、カペラの花冠が香りを放つのを嗅ぎながら、降り注ぐ光の礫を一心に受け取る。
分厚い木製の扉を叩く、応援の兵士達の騒々しい掛け声は歯牙にもかけず、直向に祈った学生達は、神の倉の神聖な讃美歌集成の写本が収められた箱を取り、厳かに開く。単なる紙の束に向かい、さらに深く、床に額をついた学生達は、彼らが決めた独立の歌を口ずさむ。富の御利益があると噂される『チアーズ年次大讃美歌集成』に触れて、勝利の代償として女神に命を捧げることを口々に誓った。
「開けなさい!開けなければ強硬手段に出るぞ!」
祈りの時間の中に、下賤な叫び声が混ざる。扉が激しく打ち叩かれ、木造の扉に掛けられた閂がぎしぎしと悲鳴を上げた。ついに蹴破られて外の光が聖堂内に漏れ込むと、学生の一人が急いで聖なる箱を閉ざし、説教台の裏に隠す。群れなす芋虫のような学生達に徐に近づいた武装した兵士達は、彼らが跪く先にある、神々の像に向かって威嚇射撃をした。カペル人の学生達が説教台の下にひしめき合い、軍人たちを赤くなった目で睨みつける。彼らが母国語で反抗の言葉を告げると、意味さえ聞き取らずにプロアニア兵が一人の脳天を撃ち抜く。血が噴き出し、仲間たちの中に倒れ込むと、仲間たちはその身を支える。ぐったりと首を仲間の方に倒し、目を見開いたまま息を引き取った男の足元に、流れ落ちる血が溜まっていく。
きっと睨みつける視線の先には銃口がある。その奥に、何を感じているのかも読み取れない貼りついた無表情がある。
しかし、その無表情の後ろにあるものまでは、学生達には伝わらなかった。兵士はただ命令に合わせて、この、若く聡明で勇敢な者たちに弾丸を撃ち込んでいく。
神聖なステンドグラスの明かりの中に、薬莢が落ちていく。空の薬莢が転がっていく先から、血溜まりが染み出してくる。
撃ち込むたびに広がっていく血の池に向かって黒い長靴の兵士達が踏み込む。
彼の靴とズボンは、一人残らずその脳天を撃ち抜かれ、動かなくなった学生達の返り血で汚された。兵士は武器を片手で提げ、動かなくなった若者たちの汚れた顔を見おろす。
降り注ぐ極彩色の陽光の下で、どろりとした栄養満点の血が広がる。
扉の向こう側で、悲しいリュートの音色がしめやかに響いた。
血溜まりの上に長靴を置き、立ち尽くすその人は
いつか見た夢幻の儚い絵本の中に生きて
蝙蝠の羽根の如き飛び梁が、枯れゆく命に影を差す
血溜まりの上に佇む長靴の心は如何に隠そうとも
震える手 揺らぐ瞳 頬伝う涙は隠し切れない
誰かを思い出して、静かに窓を見上げる
血染めの薬莢が、靴に当たった