‐‐1911年、冬の第三月第四週、プロアニア、ゲンテンブルク‐‐
人類初の有人宇宙飛行達成。
搭乗者カール・リヒトホーヘンは、宇宙飛行を達成し、無事に帰着を果たした直後の記者会見において、彼らの生きる星が球体であることと、それが宇宙空間に浮かんでいることを語った。ここにプロアニア王国がとうに捨て去った宗教世界の不存在が証明され、神の不在は世に明らかとなった。
神が人の心にのみ生きることを証明したその日、バラックの宮殿で続報を待っていた国王ヴィルヘルム・フォン・ホーエンハイムは、その報告をどこか他人事のように聞き流していた。
科学相フリッツ・フランシウムも、宰相アムンゼン・イスカリオも、正体不明の胸騒ぎを覚えて、霧と煤煙の立ち込める空を、窓越しに見つめている。人類初の有人宇宙飛行の達成という輝かしい功績も、どこか他人事のように思われた。
「……アムンゼン。ペアリスの件は」
執務室の椅子に腰かけて、達成された報告を受け取った空の天蓋に視線だけを向けながら、ヴィルヘルムは静かに問いかける。アムンゼンも即座に王の懸念事項に答えた。
「えぇ。今のところ動きはありません」
「いざという時動員できる核兵器はあるのか」
「……陛下。我が国の食料自給率は旧カペル王国に依存しています。核兵器の使用は最終手段になるでしょうね」
「聞いた通りの回答をしろ」
ヴィルヘルムはどすの効いた声で答える。アムンゼンは丸い背中に手を当てたまま、「既に各基地に配備済みです」と手短に答える。回答から少し間を置いて、ヴィルヘルムは短く了解を伝えた。
会話を静観していたフリッツは、二人と少し距離を置いたままで、静かに笑い声を零した。深い闇を湛えた二つの瞳が、フリッツを睨みつける。狭く重苦しい機能的な室内に、暖房の温い温度が漂っている。空気中を漂うほんの僅かな埃が電灯で照らされて光り輝いていた。
「いえ、御二人の会話に、老いを感じまして」
「老いですか?確かに、私も陛下も年を取りましたが……」
アムンゼンは片眉を持ち上げる。フリッツはどこか含みのある笑みを浮かべたまま、以前から皺の寄っていたその手で顎を摩った。
「解りますよ。年を取ると、変化を恐れるようになっていく。ご自身の体に現れる、良くない変化というもの……。若い頃には好転するしかなかったものが、悪い方向へと転がっていく不安。私にも覚えがあります」
ヴィルヘルムの赤い瞳が揺らぐ。それを覗き込み、目を細めて笑うフリッツの視線を、アムンゼンの鍛えられた体が遮った。
「陛下の合理的な選択を妨げるようなご進言は、避けるようになさって下さい」
アムンゼンの刺すような視線の中で、白衣の男が静かに目を閉ざす。
宮殿の駐車場に、カール・リヒトホーヘンを乗せた黒い車両が到着する。それに連れ添うように、宮殿の門前を大衆が埋めている。通り道すらない行列の中で無数の人の顔が蠢いている。それはさながら複数の細胞がひしめき合うかのようであり、顔と顔が重なり合い、離れあいながら、無数の瞳がぎらぎらと輝いている。
ヴィルヘルムは衣服を整え、声を震わせて言った。
「アムンゼン、行こうか」
アムンゼンはフリッツを睨みながら応じ、一所に留まったまま微笑を浮かべる彼を押し退けて王の後に続く。未だ温もりを保ったままの椅子が引かれたままの室内で、フリッツは音もなく瞳を開く。僅かに持ち上がった口角が肌の上にえくぼを作り、兵士に守られながら車内から登場する若い主役を見つめていた。
旋毛には艶があり、未だはりのある肌を無邪気に持ち上げながら、カールは宮殿へと近づく。邸内から王とアムンゼンが現れると、この若い軍人は敬礼をし、アムンゼンと握手を交わす。王もアムンゼンも、貼りついた笑顔を浮かべたまま、フリッツが思わず吹き出しそうな労いの言葉を述べた。
気持ちの良い笑顔ではきはきと答えるうら若き軍人を前に、二人の中年は戸惑いの表情を零す。ぎこちない笑みを浮かべる二人を見おろしながら、既に同じような戸惑いを感じ終えたフリッツは、憐み深く目を細めて笑った。
主な出来事
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