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鉄塔のアエネイス  作者: 民間人。
1911年
329/361

‐‐1911年夏の第三月第二週、ムスコール大公国、サンクト・ムスコールブルク‐‐

『ウラジーミルロケット暴発事故 揺れる技術的威信』


 先日ウラジーミル市東端の閑静な草原地帯で、無許諾で行われたロケットの打ち上げにトラブルが発生した。3名の死傷者を出し、現場は一時騒然となった。

 先日午前11時29分ごろ、ウラジーミルから3㎞ほど離れた草原地帯において、民間の非営利団体『ウラジーミル宇宙技術局』がロケットの打ち上げ実験を行った際、打ち上げ時のトラブルによって第一段の落下による死傷者が発生。その後ロケットは軌道を変え、同市外の森林地帯に着弾した。原因はエンジン系のトラブルと思われる。周囲には同団体所属の団員を含む12名がおり、2名が死亡、1名が腹部の骨折などの被害を受けた。なお、調査の結果、同市での被害者は発生しておらず、警察は本件に関しては事故として処理し、同団体所属のメンバーを危険物処理法等違反の容疑で逮捕したという。


 宰相アーニャ・チホミロフ・トルスタヤ氏が宇宙開発事業へ対する意欲を表明した直後に起こったこの事故は、ロケット開発へ対する我が国の世論に少なからぬ影響を与える可能性が高い。

 なお、これについて、ムスコールブルク大学附属科学研究所の所長であるベルナール・コロリョフ氏は、「大変危険な行為。現在国家プロジェクトとして開発事業を進めているので、これを信頼してくれぐれもこのような行動は行わないように」と述べた。

 また、ロケットの構造に関する問題点を挙げ、「同様のロケットを開発した場合では、宇宙への進出は難しく、大気圏内での運用しか難しいだろう」と述べている。我が国の科学技術は未だプロアニアの水準には至っていないようだ。



 朝の新聞が報じたこの事件について、市民たちは意外にも冷静な反応をした。戦前のような長大なデモ行進は行われなかった上、近隣住民の反応は団体へ対する冷ややかな評価しかなかった。

 それは、この事件が徹頭徹尾政治的な文脈を持たなかったためであり、ベルナールにとってはある意味で不幸中の幸いのように思えた。何せ、この事件に関わった団体はプロアニア王国との関連が殆どなく、良くも悪くもベルナールら宇宙開発推進派の意見に大きな影響も与えなかったためだ。それを不幸な出来事として受け止めて、必要な技術の検討と特許の確認を、粛々と進めていれば良かったからだ。

 ベルナールはこの一件を耳にした後も、記者に対してはごく冷静に対応したので、大きな波紋となることもなかった。

 彼が技術の特許を確認するために自身の研究室に籠っていると、以前にも感じたような気配を背後に感じて振り返る。右手に分厚い本を抱えた白髪の少年、悪魔・ビフロンスが彼を静かに見守っていた。


「おお、これは。失礼しました」

「こちらこそ、突然お邪魔してしまい申し訳ありません。その、今朝の新聞を読みまして、消沈しておられないか不安に駆られまして」


 悪魔は丁寧な言葉遣いで、言葉を詰まらせながら言う。機嫌のよいベルナールは、冗談交じりの笑顔で「いえ、いえ」と返した。


「今回の事件は団体の無理な行動の方に非難が傾いたようです。私は粛々と技術の集積を進めるだけです」


 ベルナールはコーヒーを沸かしに立つ。幼い姿の悪魔に気を遣われないよう、自分用のコップを先に持ち上げ、振り返った。


「あなたもいかがですか?」

「お言葉に甘えて」


 ビフロンスが答えると、ベルナールはもう一つのコップを取り、ドリップの支度をする。保温状態のポットの中身を覗き、十分な湯が溜まっていることを確認すると、彼は泡が立ちすぎないように慎重にコーヒーを注いだ。


 渦を巻くようにフィルターの上から湯を注ぐ。その動きを丸い瞳が手持ち無沙汰に見つめている。


「我が国でも十分な技術は既に出揃っているはずなのですが、プロアニアの模倣をするためであったとしても、膨大な量の特許を確認する必要があります。それがなかなかしんどくて、ですね」


 ベルナールはフィルターを捨て、二人分のコーヒーを応接用の机に置いた。ビフロンスをソファに誘うと、彼は遠慮がちに会釈をして席に着く。

 湯気で老眼鏡を曇らせながら、ベルナールがコーヒーを口に運ぶ。ビフロンスも、見た目からは想像もつかないような大人びた所作で、コーヒーを飲んだ。


「そうでしょうね……。権力が分散していればいるほど、事業に掛ける段階と時間は膨大になります。ですが、それ故の強さを見せなければ……」


 不安げな表情を見せるビフロンスに、しかしベルナールは落ち着いた様子で答えた。


「色々とありましたが、ムスコール大公国は少しずつ、その力を発揮し始めておりますよ」


 授業明けのベルが鳴る。学生達がじゃれ合いながら、講義室から退室していく。その若々しい騒々しさを扉越しに聞きながら、ベルナールは静かに瞼を閉じた。


「私は、プロアニアに勝利することを目指すことは、正直諦めているのですよ。だから穏やかでいられる」


「ベルナール教授……」


 賑わいの中に、食堂へ向かう者やゼミの研究室へ向かう者、図書館へ行く者やロビーの椅子で眠りこける者がいる。その一つ一つの音が、雑多で無秩序に動き回り、すれ違っていく。

 重なり合う音の中で、ベルナールは静かに瞼を開いた。

 彼だけの個室に、不安げに顔を覗き込む幼い容姿の悪魔の姿がある。彼は膝の上で握る拳に力を籠めた。小さな細い指先に、筋肉の筋と、青い血管が僅かに浮かび上がる。老練されたベルナールの皺だらけの手よりもなお、年季が掛かって見える『幼い手』である。


「ただしね。プロアニア王国がこれまでに排除してきた物に対して、意見を求めることはしてみたいのですよ。どの研究が無駄であったのかと。そして、こうも答えなければなりません。無駄な研究など一つもないと」


 ビフロンスがはっと顔を上げる。彼の瞳の奥には、老人の姿が映されて、レンズの向こう側にある視神経には、未来博士の影が映った。


 その記憶は、彼からすれば、ほんの一瞬の出来事であった。


「遠い昔、昔のよしみでウネッザの未来博士に献花をしたことがありました」


 永遠を生きることを運命づけられている小さな悪魔は、故郷の空を偲ぶように静かに目を細めた。目の前の()()は皺の寄った顔をくしゃりと歪めて、慈しみ深く微笑む。悪魔は恥ずかしそうに笑みを返すと、何もない空間で人差し指を擦る。そこに本棚があり、背表紙を摘まみ上げて本を取り出すように。

 何も無いはずの膝の上に何かを広げ、一枚一枚優しく頁を捲った。


「彼の生きた証を、その面影を見るにつれて、少年の頃の彼が懐かしく思い出され……。そして、僕の知らない彼の足跡を辿るうちに、こんな手紙を見つけたのですよ」


 透明の書物の上を指でなぞる。そこに何かが本当にあるかのように、滑らかな曲線を描きながら、指先は空気をなぞった。


「「『善き学生達へ』」」


 二つの声が重なる。同時に、講義開始のチャイムが鳴ると、研究室から一切の音が消えた。


 ウネッザを訪れたあらゆる学部学科の、ムスコール大公国の学生達が、その手紙のレプリカを読むという。ベルナールは内容を諳んじられるほど、それに強く魅せられていた。深く学びに傾倒した者ほど、それに魅せられていたはずである。ビフロンスは続ける。


「あらゆる正解さえも、あらゆる間違いさえも、そこには意味があったと。永久(とこしえ)を生きた僕でさえ、その境地には……」


「それはきっと有限を生きる人の慰みだからですよ。いつか地上からすべてが滅び去るとしても、残るものがあるとすれば、それは」


 時計の針が進む。


「今この時しか、無いのですよ」


 時計の針が、静かに進む。


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