‐‐1911年夏の第二月第四週、プロアニア王国、ブローナ‐‐
煤で汚れたブローナ城の六角階段から、白い粉が削り出されている。建物の基盤に不要な装飾の類は都市の建造物の補修のために削り取られ、鼻の砕けた立像や、頭だけ残った悪魔の像などが、外観のみすぼらしさ、惨めさを強調している。
かつて清流の古都と呼ばれたブローナの水面に映るのは、無機質な造形の建物群と、水面を揺らす金属製の船舶だけである。濁った水の下から魚の死骸が浮かび上がり、プロアニアの駐屯兵が建造した工場から分厚くどす黒い噴煙が空へと放たれている。垂れ流されたヘドロのような工場廃液は虹色に輝き、排水溝から泡立ち続々と溢れてくる。大きな川から漂う得も言われぬ悪臭は、ハンカチで口周りを覆って過ごすヴィルジールの心をますます沈ませた。プロアニア兵が銃を天に掲げて歩く姿を見るたびに、彼は頭上から岩でも投げ込んでやりたいとさえ感じた。
ブローナ城もチェンチュルー城も、名目上はヴィルジールの支配下にあるが、現在それらを実質的に支配下に置いているのはプロアニア兵達であり、彼は居心地の悪い暮らしを続けている。今日は一室を借りての定期会合が行われているが、粛々と続けられる会議の声を聞いても、カペル王国時代のような食事や酒を交わした交流は行われていないらしいと分かる。彼は会議をする部屋の前を通るついでに聞き耳を立ててみたものの、専門的な用語を交えて会話が続くだけで、抑揚も無ければ、冗談もない。紙を捲る音の方が大きいのではないかとさえ思えるような声だった。
さて、ヴィルジールを憂鬱にするのは、何もプロアニア人ばかりではない。従属するカペル人はともかく、上司であったレノー・ディ・ウァローにもまた、幻滅するばかりだった。彼は以前のデフィネル朝では国が守れないだろうことを知っていたが、かといってレノーがあのように懐柔されるような人物とも思っていなかった。何より許し難いのはカペル王国の建物を簡単に損壊できるような要求を呑んだことで、レノーは結局地位にしか興味がなかったのだと程度が知れてしまったことだ。
そうは言っても、彼は彼自身も憎いと感じた。王国の終焉を見届けて思うのは、いつも保身に傾く自身の惨めさである。プロアニア王国が自身の文化を尊重してくれない事など知らずとも分かることにも拘らず、彼は易々と都市を明け渡してしまった。それが何より心苦しく感じられた。
空に濛々と立ち昇る黒煙を見上げながら、摺り足をするように歩く。邸内の廊下は手つかずのままで残されているものの、いつ床材が外されるのかもわかったものではない。無意味に不幸な想像ばかりが脳裏を過り、彼の心を濁らせていく。浮き上がり白く膨らんだ腹を晒す魚のように、死に体の自分の爪先から視線を逸らす。ただ空を覆う不穏な影だけが、靄のように自分に覆いかかってくる。
そこで、一旦足を止めた。会議を終えたらしいプロアニアの兵士がぞろぞろと部屋から出てきたからである。彼らは各人次の業務について語らってヴィルジールの横を通り抜けていったが、一団のうちの一人の言葉でヴィルジールははっと息を呑んだ。
「ペアリスでのカペル人達の不穏な動きを見るに、今後は我々も細心の注意を払わなければなりませんね」
「首尾よく収まって大事には至りませんでしたが、こうした動きは今後も起きるでしょう」
若い兵士とは思えない、含蓄に富んだ会話ではあったが、カペル王国の貴族は母国語しか使えないことが多いことで油断したのであろう。外務卿であったヴィルジールはプロアニア王国の言葉が理解できてしまった。そして、表情を何とか取り繕った彼は、行列が行き過ぎると六角階段へ向かって一目散に駆けていった。
そうか。あの一件のことが会議で出たのか。ヴィルジールは六角階段に辿り着くと、呼吸を整え、手摺につかまって外の『濁った』空気を吸い込んだ。不味い空気を細く吐き出し、脳に酸素を送る。巡る思考の中でレノーへの怒りが津波のように押し寄せてきたが、最後に残ったのは僅かばかりの希望であった。
(カペル王国の復活を願うものが、まだまだいるということではないか……)
そう思い、顔を持ち上げた矢先、六角階段を目指して一羽の鳩が羽ばたいてくる。不信に思った彼が鳩に目を凝らすと、その足には手紙が括り付けられていた。彼のもとに飛び込んできた鳩の足から手紙を解き、開くと、手紙は単なる白紙であった。
ヴィルジールは息を呑み、指先に小さな炎を立て、白紙の手紙を下から炙ると、複雑怪奇な文章が浮かび上がった。
彼は浮かび上がった文章を見つめ、静かに呟く。
「カルダン」
鳩が幾つか穴の開いた厚紙に姿を変え、ヴィルジールの足元に落ちる。彼はそれを拾い上げると、手紙の上に置いて開いた穴から覗く文字を読んだ。
まだ読み解ける文章ではなかった。彼は手摺を二、三度叩き、思いつく限りの言葉を続ける。
「ロット」
「ポリュビオス」
「ヴィジュネル」
彼は言葉を羅列した末、鳩であった鍵を改めて突く。鍵は再び姿を変え、換字表に変化した。
先ほど浮かび上がった文章と換字表を照合した彼は、手で口を覆い、はらはらと涙を零した。
富有る者より 王妃は無事 わだつみに弓あり 以上ブローナの雄へ
それが、フランツ・フォン・ブリュージュからの王女の無事を伝える文書と、プロアニア海軍との協力を得たことを仄めかす文章であると、ヴィルジールはすぐに理解できた。
鍵は彼の手から離れてしばらくすると鳩の姿に戻る。魔術不能のプロアニア人には、それを解く鍵が得られないようにされていた。
そこまでの手間を用いて、ヴィルジールに現状を伝えたフランツの心配りにいたく感動した彼は、再び指先に炎を灯し、炙り文字のある手紙を焼いて灰を六角階段から投げた。灰は風に乗って散り、やがて見えなくなる。ヴィルジールは鳩を抱き上げると、周囲の目を気にしながら、足早に、鍵のある個室へと籠っていった。